結局、私の性別は何だったのか?

物心ついた時から変わらぬ、私にとって当たり前の感覚。それが少数派だったことに気付いてから、13年ほど経った。

長い苦しみだった

実際のところ、抱いている感覚自体は昔からずっと「性別の感覚がない」「女性とカテゴライズされた時の違和感」「男性と見なされるのも変な感じ」で変わらない。つまりFtX無性というカテゴリになるだろう。

学校では男子・女子と分けられ、服やおもちゃも男児・女児、私は平成5年生まれなのでLGBTQの概念は一般的でない、インターネットは使えるがSNSは存在しない、そんな状況の中で、かつての私は毎日とても苦しんでいた。何が嫌なのかも分からなかったのだ。

何が嫌なのか分かった後も、しばらく悩みは続いた。それではこの身体をどうすべきか、すなわち性別適合手術などを行うのが良いのか?しかし男性の身体がよいというわけでもないのだ。果たして「無性」という具体的形質を持たない心に、どんな肉体をあてがえば、私は落ち着けるのだろうか?

ジェンダークリニックにまで行って相談したが、医師というのは具体的な処置方法が分からなければどうしようもない。「本当は男だから男にしてください」は「男の身体」の定義が明らかなので対応できるが、「無性なので、無性の身体にしてくれ」は「無性の身体」の定義が無いので、できないのだ。困ったものである。

しかし現在は、身体が女性であることにそこまで嫌悪感を感じてはいない。明らかなキッカケ(楽になった直接的な原因)は無いが、いろいろ人生経験を積むことで自分に自信がついて、あまり気にならなくなったのだと思う。言い換えると、意識の中で「性別違和」が占める割合がかなり減ったのだ。自分を定義する言葉(属性)が増えることで、身体の形は相対的に「どうでもいいこと」になったのである。

経験上「克服する」とは「どうでもよくなる」とほぼ同義であり、現状「自分はFtXだから云々」などとは殆ど考えないので(※)、特に何の治療(?)も施していないが、いつの間にか私の性別違和症候群は寛解していたようである。

※「女性は〇〇なことが多い」という言説にあまりにも合致しない場合(かなりよくある)に「まあ女性ではないしな」と納得することが時々ある。

メタル、仏教、結婚、そして仕事

こう並べてみると、どれもこれも互いに相反するように見える。しかしこの4つが、私の精神を非常に広い意味で落ち着かせてくれたことは間違いない。

まず初めに私の精神を立て直してくれたのが、ヘヴィメタルである。「最愛のバンドを追いかけ回す、似顔絵を描きまくる」という子供っぽい行為に没頭しているうちに、それまでの鬱屈とした性質が少しずつ変わっていった。抑圧されてきた子供時代を取り返したようだった。ドハマりしたのが破天荒なヘヴィメタルバンドで、特にリーダーは酒飲みでしょっちゅう骨折しているような人だったから、その効能も大きかったのだと思う。

仏教(および瞑想)は、それまでずっと考えていた(またしても)憂鬱な数々の思考を1つにまとめ上げ、体感的にも納得することで、かなり気を落ち着かせてくれた。メタルバンドで取り返した子供時代が「楽しいもの」だとすれば、仏教は「安心した子供」の感覚を取り戻してくれたようだ。それまでの思考たちを点に例えると、仏教によって線が繋がって全体像を把握でき、頭をスッキリさせることができた。ベッドの中で考え事をしすぎて眠れなくなる事は殆ど全く無くなった。

結婚と仕事は、私にとっては「証明書」または「免罪符」のようなものだ。人間社会の中で生きる以上、他人からの疑いの目線を防ぐ実績があれば快適なのである。「実は自分はとんでもない無能で、何も出来なく、誰にも好まれないのではないか」という根拠のない不安を取り除くには、実際に仕事に打ち込み、婚活をして結婚してしまうのが最も手っ取り早かった。

仕事においては、学校ほど「男・女」を意識させられることがない。ランドセルは赤色だったが、今の通勤カバンは男女兼用の黒いリュックである。今の勤務先がデザイン会社で服装の規則が緩いため、さらに意識させられることが少ないのだとは思う。「女性だから柔らかいデザインが得意」というのは、全く無くはないのだろうが、私の得意ジャンルはどちらかといえば「堅苦しい・かっこいい・スタイリッシュ」である。メールには苗字しか書かないので、電話したことがないお客さんは私のことを男性と思っていても不思議ではない。もはや体格や声といった生来的なもの以外は、男女の差は殆どないというか、男女差よりも個人差の方がかなり大きいように感じられる。

初めに就活をするときは、リクルートスーツで女性的な格好をしなければならないことに相当苦痛を感じていた。しかし今は、パンツスタイルのスーツでヒールの低いパンプスを履くことに、そこまで強い抵抗感はない(パンプスは少し抵抗がある)。最も快適であろう出勤服は「Tシャツ、ジーンズ、サンダル」にちがいないと思うが、レディースのオフィスカジュアル服にあからさまな嫌悪感を覚えることはなくなった。

この変化は「夫はおそらく『男性的な“女性”』としての私に好意を覚えたのだろう」と感じたことが原因のひとつだと思う。つまり「FtX」という小さな(厳密な)カテゴリーから、「女性」という大きな(ゆるい)カテゴリーにいつのまにか引越しできたのだと思う。→cf.)「Xジェンダーらしさ」は置いていこう

子供時代を取り戻し、大人の階段を駆け上がったことで、生きること自体が相当楽になった。

結局、私の性別は何だったのか

感覚自体は物心ついた時からずっと変わりなく「性自認の感覚がない」「女性と言われても男性と見做されても変な感じ」であるから、精神的に楽にはなったけれども、分類としては変わらず「FtX無性」なのだと思う。

昔は「勘違いされること」に非常に強い拒否感があった。何としてでも女性らしさを消さなければ「勘違い」されてしまう、そうなると私の存在は消えてしまう!それくらいに思っていた。だから、スカートを履かないのは勿論、服に施された僅かなフリルやリボン・ピンク色・「Girl」などの文字列に瞬時に気付いて拒否し、歩き方は外股気味に自己矯正し、低い声で話し、感情的な反応を抑えていつも論理的であるように努めていた。女性として生まれてきたことを否定していたが、男性だという確信もないため、進むべき方向性はわからず、ただただ己の肉体を否定し続けるだけであった。

しかし今は、勘違いは快適ではないものの、そこまで絶対に嫌という感じでもなくなった。というより、他人に何か思われることの重みが軽くなった。さすがにフリル沢山な服は着たくないが、時々アイラインを引いてみたり、民族衣装風のロングスカートなら良いんじゃないかと思う程度には、自らの女性性への拒否感がなくなった。前述の通り、他が増えることで相対的に「性別」の意味が弱まったので、例えるなら円グラフ中の10%が赤色だったとして、そこが黄色になったとて、全体的な色味はあまり変わらんだろう、そんな感じになった。

「性自認がない」ので、「私は(体の形は)女性です」「私は女性として生活しています」は正しいが、「私は(体も心も)女性です」「自分のことを女性だと思っています」は間違いである。そう言いたいかどうかというより、単純に事実と異なる。だから、結婚していて・女性として生活していて・あまりFtXという言葉に拘りがなくなっていても、私はやっぱりFtX(無性)なのである。この感覚は、おそらくこれからもずっと変わらないのだろう。