思考の損切り

「考え続けていれば将来的に何かが起こるかもしれない事柄」について、取捨選択のうえ考えることをやめるよう意識し始めても良い年頃ではないかと思い、考えを整理するために記事を書くことにする。


世の中には「問題」が無限にあるらしい。地球上のどこもかしこも、ビジネスやデザインの力で「解決」すべき「問題」で埋まってしまっているようだ。インターネットを開くと、森羅万象を知り尽くした者共が「問題」を「解決」しようとしている。その一方では、「新しい価値を創造」してビジネスチャンスを生み出そうとしている者もいる。そんな問題だらけの世の中で、私はどう振る舞うべきなのか?


社会問題を「自分ごと化」しすぎ

インターネットをわざわざ開かずとも、電車に乗ったり街を歩いていれば「社会問題」が余るほど目に入る。私が問題視しているのではなく、誰かが問題視しているらしい事柄が、どんどん目や耳に飛び込んでくる。そんな時、私はついつい「そうなのか、じゃあ自分はどうすべきなのか」と考えがちだ。よい有権者である。短ければ数秒で終わるが、長ければ数日その考えが頭にこびりついているものだから、やっかいだ。

数日考えたところで、解決策などそうは浮かばない。というより、そもそもあまりクリティカルには考えておらず「ウーンウーン、こりゃ無理だ」と、なんとなく反芻して苦しんでいるだけなのである。自分にとって気がかりな事柄に遭遇してしまうと、ただただ苦しいだけの無駄な思考モドキが充満することがあるのだ。

ここ数日こうなって苦しんでいたのだが、「さすがにもういいかな」とひらめいた。

種まきに使っていた余力を水やりに移行

これまでの私は、比較的「どんな人のどんな意見でも、とりあえず正面から否定せずに受け止める。そして肯定意見と否定意見の両方を考え、自分の立場を決める」スタンスでやってきた。

これは、植物の成長に例えるなら「種まき」だ。自分とは全く違う立場や考えを持つ人の意見も、とりあえず聞いておくことで、将来自分の畑で化学反応を起こすかもしれない。多分起こらない確率の方が高いのだが、そういう「パッと見、役に立たなそうなこと」も、これまではとりあえずキープしてきた。

しかし、もうすぐ20代も終わりなのだし、そろそろ意識的に種まきをするのはやめて(意識をしなくても種まきがゼロになることは無く、ある程度減るだけ)、花を咲かせるための手入れ(水やり、日光浴)にもっと力を入れるべきという考えがよぎった。

言い換えると「あらゆる問題を自分と関連付けることはやめて、自分を効果的に使用できる分野に耳を傾けていく」態度に移行していこうと思うのだ。

「自分を効果的に使用できる分野」の目印は「得意で、楽しくて、善いと感じる」である。私にとってデザインの仕事とは得意で楽しいものだが、デザインやイラストなら何でも良いわけではない。自分が「これは世の中に必要な仕事」「道徳的で良いサービス」と思える案件に携われるなら、最高だ。逆に、たとえ単価が良いとしても「こんなサービスは無い方が良い」「欺瞞に満ちている」などと感じる案件に取り組まざるを得ないとしたら嫌な気分だ。あまり気にしない人もいるのだろうが、私にとっては「善いと感じる」が非常に大事なのだ。そういうわけで、これからはより自分の納得できる分野に注力していけたら良いと思っている。

不愉快な思考体験は、感覚的には気持ち良い

電車の吊り広告などで様々な「意見」が目に入ると、つい「そうだろうか」と考えてしまう。おそらく8割くらいの広告には、何かしらの反駁が頭の中で始まってしまう。内容がそこまで変でなかったり、テキストが無くても、デザインや写真から伝わるメッセージがあるのだ。

このように広告等にイチイチ反論が始まるのは、我ながら不愉快だ。反論したところで会社や社会は何も変わらない。変わるのは、私の気分がイライラするということだけだ。

それで確かにイライラするのだが、何故かそれを辞め難い。まるで、私の心や身体は「やめてくれ!」と言っているのにも関わらず、脳は「ウッヘッヘ、こりゃァーー気持ちが良いぜ」と大喜びしているようである。世の中にある有害な中毒症状(たばこ、ギャンブル、アルコールなど)と恐らく似た仕組みなのだろう。

今までは、何かしらの閃きの元になるかもしれないし、デザインの勉強にもなるのだからと、特に自分の反論を制御しようとは思わなかった。しかし前述の通り、もうそろそろいいかと思うので、不愉快な「反論中毒」は治療していくことにする。治療といっても単純なことで、通勤中は音楽を聴くようにすれば、広告に目が行く頻度は減らせるだろう。

いうほど問題でもないことを問題化しない

デザインの専門学校に通い始めた初期の段階で「デザインは問題解決だ」と言われた。問題があり、解決したい、そのためにデザインを開発して使うのだと教わった。例えば砂漠の国で水を運ぶ際、バケツに汲んで持ち運ぶのでは大変なので、大きなタイヤ型の水入れを開発した話を教わった。中心の穴に紐を通して転がせば大量の水を運べるので、現地の人は大変楽になったらしい。これは好ましいデザインだと思う。

思考の損切りにおいて念頭に置くべきこととして「既にある問題を自分と関連付けることをやめる」と前述したが、「いうほど問題でもないことを、仕事を取るために問題化することをやめる」のも同様に重要である。こちらは主に私とはかなり異なるタイプの人種がやっていることなので、いま私が心がけるというよりは、独立などした際に周囲の意識の高いクリエイターに引っ張られず、己を貫くために必要な心構えである。

スマートフォンを初めて手にしてスクロールした時は、これはすごいと感動したが、だからといって「ガラケーに問題があった」わけではないと思う。ダイヤルアップ接続は今だとやってられないが、当時は別に困ってはいなかった。みんな同じ条件だったからである。そして、何かが新しく普及すれば、新しいデメリットも生まれる。

もし私が会社を作るとしたら、企業理念には入れたくない文言がある。「新しい価値を創造する」だ。新しい価値を創造するとは、新しい問題を創造することである。

困っているなら受けるけれども、大変なら代わりにやるけれども、困りもしてないし大変でもない場所に、さっそうとノウハウやテクノロジーを持ち込むのが正しいのかどうかは、よく考えながら仕事をしたいと思う。