退屈な大人と不機嫌な子供の狭間で

先日開催された「Download Japan」に参戦してから(実際にDLfestが因果関係にあるのかは不明だが、感覚的にはこれが原因)、徐々に精神的な変化が起きている(成長ではなく、ただの変化)。

今回も、私の人生におけるテーマの1つ「芸術と精神的安定は両立できるのか」についての記事である。

芸術的視点とは何か

現在の私は、デザイン会社でデザイナー・イラストレーターとして働き、たまに趣味でも絵を描いているが、精神病ではない。大雑把に言えば、両立できていると言えなくもない。しかしながら私が追究したいのは、もっと根本的なところ、瞬間的な精神の動き、その仕組み自体である。具体的に言えば、芸術的視点で世界を見ると同時に精神は不安定になり、精神が安定モードに入った瞬間に芸術的視点は失われるのではないか?ということだ。

ここでいう「芸術的視点」とは、子供のような自由な視点と、それに対する執着を指す。子供が地べたに転がって「イヤダー!!絶対ほしいー!!」と暴れているのが、芸術的態度の擬人化といってよろしい。暴れる理由は、大人に見える「楽しい」「皆に自慢できる」といったものもあるが、言語化できないスピリチュアルな魅力、強烈な執着心、親に勝ちたい絶望感などが襲って来て、暴れる他に彼には表現手段がないのだと感じられる。

また「精神的安定」とは、諸法無我をひしひしと感じていて、執着心がほとんどない状態を指す。これの擬人化は難しいというか現実世界では殆どお目にかからないが、あえてこれの真逆の状態を言うとすれば「スピリチュアルの力で“復縁しました”と思っている19歳」のような感じになると思う。

芸術なんてものは100%自己満足の世界だし、「芸術性と精神的安定の関係」も私の内面で起こる事しか観察できない。だから、このテーマは世界や社会にとっては全く意味がなく、何の役にも立たない。しかし人生そのものや宇宙にも特に意味はないのだし(※)、何より私は理由なく強烈に“気になる”のだ。

※意味がないという結論は人間の知能で出したものであって、実は高知能生命体や宇宙意志は意味を見いだしているのかもしれないが、人間には分からないのだから関係ないことである。

おそらくそれは正しいが

これまでこのテーマについて考えたり、感じたりしていたが、おそらく答えは「厳密には両立できない」「芸術的な感覚になることと、精神的に寛ぐことは、正反対の働き」なのである。

難しいのは、芸術的感覚が出ている瞬間には精神的安定の事など忘れているし、精神的に寛いでいる時は芸術的視点が失われているのだ。寛いでいる時は、前述した「自由な視点」は作れるが、「執着」が出てこない。芸術的感覚にはどちらも揃っているのだ。

では「中間」はないのかと言うと、あるが、それもまた中途半端で微妙な感じである。そこまでキツくはないが、そんなに寛いでもいない。中途半端で、ここが丁度満足できるという感じではない。悪くはないが、良くもない。私は今まさにその「芸術的感覚」と「精神的に落ち着く」の中間にいて、どちらかに飛び込むのが良いのか、この位置をキープするのが良いのか、それともまだ見つけていない他の選択肢があるのか、迷っているところなのだ。

退屈と不機嫌どちらを取るか、それとも他の何かか

久しぶりに芸術的感覚が来ているのだから、せっかくだし飛び込むのが良いとも思うのだが、精神的に寛いでいる方が何かと楽なのである。日常を過ごすのにも、健康診断などの少しイレギュラーな日にも、仮に大災害が起こった場合でも、芸術的感覚でいると、やたらときつい。ひたすら疲れる。世界の全てが腹立たしく、何も良い事はない。

精神的に寛いでいる状態は、快適だ。ひたすらに楽だ。芸術的感覚の時にはかなり苦しい出来事でも、あまり苦しくない。ただ、どこか自分ではない何者かが自分を上手に操作しているようで(※1)退屈だし、個人的に納得のいく作品は作れない(※2)。

※1 感覚に関わらずこれは事実なのだが、より一層退屈に感じる。

※2 デザイナーとして顧客が納得できる成果物は問題なく作れるが、趣味の中でアーティスト的な狂気(≒執着)を含んだ「こりゃ我ながら傑作だね」は作れなくなる。

とはいえ、どんなに直感的に「そうだろう」と感じていても、正しくないことはある。科学的な確からしさを高めるためには、記録をつけてみて、隠れた因果関係が無いかを見る必要がある。

このようにして色々と考えるが、考えた結果何かできるのかと言えば、何も出来ない。何かをやる「つもりになる」「そぶりをする」ことはできても、本質的に流れをコントロールすることは不可能であり、自動的に波に流されるほかない。とはいえ、それでマアマア上手くやってきているのだから、問題はないのだろう。