人生のブン岐点を感じる今日この頃

あと2ヶ月半ほどで30歳になる。20代の名残を惜しみながら日々を過ごしているのだが、そういうお年頃なのだろうか、人生の中で取るべき態度についての分岐点にいると感じている。

「自分はこれでいい」のだろうか?

ある程度、生活をつつがなくこなせるようになり、仕事にも慣れ、家庭を持つようになる。もう親がいなくても一社会人として一通りの事はこなせる。生活していて怒られることは稀である。仕事の中で上司に考えを否定されることはあるが、クライアントから怒られる事は殆どない。後輩社員は、私をある程度慕ってくれている(ように感じられる)。パートナーも何とか見つかった。

そのような状況になれば、「自分はこれで良いのだ」と感じるようになってくる。実際に自分を好んでくれる人がある程度いて、自分が普通にやった仕事がクライアントに受け入れられており、日常的にすごく困っていることはないのだから(「死」や、地球の遠い未来の話、政治的立場となるとかなり困ってくるが、これらは「だから自分が変わらなければ」に結び付かないのでノーカン)。

しかしその一方で、やはりまだ他人の意見をしっかり取り入れ、自身を改善しなければならないような感じも残っている。ここで言う「改善」とは、人格や人間性についてのことである。仕事や生活環境、将来に向けての資産形成などの「やれば確実に何か残る」改善は、当然やる。

強くあるべきか柔軟であるべきか

なやましいのは、まず人間の内面というのは、慣れや(行動科学における)強化によって不可逆だということ。次に、自分が他人からどう見えているか知る術がないこと。そして、絶対にどちらが良いということもないのである。例えば、老後のための資産形成について、結果的にやるやらないは別として情報を調べるのは、確実に良い結果に近づく行為である。対して、「己を強く持って貫いて行くか、柔軟に他人の意見を聞くか」というのは、どっちを選んでも確実にどうなるとは言えない。強いて言えば、自分に合った方をやれば良いんじゃないですか、というのが精々である。

デザインやイラストの作風や、新技術への適応といった部分でも、この分岐が発生している。一見、勉強するのだから確実に良いことのように見える。だが会社の中で働くならともかく、個人で仕事を得ようとすれば「何でもできます」よりも「私はこれのプロフェッショナルです」の方が選ばれやすい、という一般論がある。そしてこれらは、単なる上手い下手以外にも感性的な差がある。無論、勉強しながらも不要な部分は影響を受けない、というのがベストなのだろうが、それが不要かどうか判断するのは不可能なのであるし、隣の土を掘りながら同時に中心の大穴も掘り進めることはできない(ただし…複数の穴が繋がることはある)。

自然な姿で惹き合い生かし合う

色々と考えてみると中々難しいのだが、特に考えなくても日々の生活や仕事は反応的に流れていく。その反応から勝手に学んだり、学ばなかったりする…と思っても、やはり学んでいたりする。だから、別に考え込まなくても良い事なのかもしれない。

ところで、年末から年始にかけて、しばらく会っていなかった友人と数年ぶりに会う機会が何度かあった。

彼女たちと話をしている中で、もしかすると私の「我が道を行く」的な気風が、一定の人々に対して勇気や力を与えているのかもしれないと感じた。過去記事にも書いたが、私のこういう性質はほとんど生まれつきであると思うし、変えようとしても変えられないし、変えたいとも思わない。

だいいち「他人の意見を受け入れる」と言っても、私の場合は「受け入れ」の度合いが違う気もする。「一意見として比較検討はする」を通過した後に「何回か試してみるが、性質的に合わなければ、やめるか改変する」くらいの程度であると思う。仕事では一々考えていられないので上司の言う事を丸呑みせざるを得ない瞬間があるが、それはごく限定的な措置でしかなく、面従腹背な場合も多々ある。

いざ独立開業をして、個人として仕事をしていく中で初めて分かることが沢山あるのだろう。基本的なキャラクターとしては、私は「強くある」方が自然なのだと感じる。しかしそれは24時間365日ではない。考えようが考えまいが、おそらくこれからも私は「頑固ではないが、その中で己を貫くことを諦めない」スタンスなのだろうと予感する。