生の空しさへの眼差し

今生きているものたちは、いつか必ず死に、その死骸は長い時間を経てまた次の何かに生まれ変わる。これまでもこれからも、ずっとそれを繰り返していくのだ。

何をどうしても自分は必ず死んでしまう、何を成し遂げても人類は必ず滅ぶ、ということに突き当たると、この世は空しさに包み込まれる。全てが茶番に感じる。といって、不老不死や永遠の人類文明というのも、それはそれで絶望的で、いやな感じがするものだ。

生の空しさについて人間が何か言う場合、だいたいは二つに大別される。一つは「空しさは忘れて楽しく生きましょう」、もう一つは「この世はクソクソクソ」である。

後者はその通りなのだが、大体の場合は(物心ともに)満たされぬ者の一時的な叫びであり、人並みな生活を送れるようになれば言わなくなる。彼は空しさを忘れ、つまり前者に吸収されたのだ。

「空しさは忘れて楽しく生きましょう」は、ほんとうに色んなところであらゆる人が言っている。私もこのブログに書いたことがあるのだが、やっぱりダメだな。臭いものに蓋をしてもダメなのだ。蓋をせず捨てようとしても、それは捨てられない。仮に自殺をしても、それを捨てられたことにはならない。我々に与えられている選択肢は、ひどい臭いに苦しむか、蓋をしてやり過ごすかの二つである。

空しさを忘れて生きるというのは、生の本質から目を逸らして過ごすということであり、それは死んでいるのと同じである…この「本質から目を逸らすのは悪(または偽、醜)」という価値観が、どこから来たのかは分からない。生の空しさこそ本質というのも、おそらく普遍的ではない。しかし私の精神は「そうだ」と言っている。

とはいえ、24時間366日、常に空しさの事だけを考えているわけではない。では、どこまでがTrueで、どこからが欺瞞なのであろうか。

生の空しさを能動的に忘れようとは思わず、ときどき故人を思い出すのと同じように、空しさについて時々思い出して「はぁ…」と言う態度、このあたりが落とし所だと思う。あえて(故人に対して思うように)「忘れないぞ」と思うことで、適度に忘れられる可能性がある。

生は空しく下らないものだが、同時に何よりも重要である。両極端を併せ持つ異質なものだ。たかが生に苦しめられるのはアホらしいと蓋をしつつ、この生こそ全てなのだと鼻を近づける。今日もまた空しい茶番が始まる。