どんなに科学技術が進歩しても

最近「人の体感温度を検知して、風を調整するエアコン」のCMが流れています。技術自体は素晴らしく、確かに「人の役に立つ機能」で便利です。しかし、やっぱり「便利すぎる技術」は人々を幸せにはしないと思うのです。今回は、そのへんを絡めて、生きる苦しみを減らすことについて書きます。

大人になると忘れてしまう事

子供を育てる時は、何でもかんでも与えないように気を付けます。我慢すること、いつでも思い通りになるわけではないことを教えるためです。そしてそれは、子供が幸せに生きるための術であるはずです。最低限のルールを守り、時には辛抱することで、自分の身が守られるんだよ、と教えています。

子供にはちゃんと我慢や共生の大切さを教えているのですが、大人になると「もっと便利になるべきだ」「もっと良いものが欲しい」などと思うようになってしまいます。そして、そういう気持ちは「発展に必要な材料」としてどんどん煽られて、どんどん叶えて便利にして、どんどん「素敵な世の中」にしようとします。

まあエアコンの技術くらいなら叶うのですが、どうしても叶わないことがあるじゃないですか?

生き物には最期がある

いくら若かろうが、稼いでいようが、イケメンだろうが何だろうが、最終的には死を迎えます。薬で寿命は伸び、新幹線で一日の密度は増えるのですが、最後に死ぬということ、これだけはどうやっても変わりません。不老不死の技術ができても、核戦争が起こったらお終いですし、何もなくてもそのうち地球や太陽は無くなります。どこの星に逃げても最後は同じです。

一方で、殆どの人の目的は「なるべく苦しみを取り除き、良い人生を送ること」です。だから発展したがる。でも、いつか死ぬのが決まっている以上、それから目を逸らして発展のことばかり考えていたら、いつまでも「死」という根源的な苦しみ、悩みが付きまといます。

もっと〇〇すれば、満たされるはず?

「いつか死んでしまう」という大問題を放置して、全然関係ないことにばかり取り組んでいるから、いつまでも満たされないのです。

多くの人達は「もっとああなったら、幸せになれる」「もっと沢山あったら、嬉しい」と思っています。その目標をクリアすれば満たされるんだ、と思って頑張っています。でも、これは延々と応急処置をしているだけです。発展で死から目を逸らしているだけ。それだと根本的にはずっと満たされない。

例えば、足を骨折してるのに、腕を鍛えれば、とりあえず何でもいいから“努力”すれば、努力のパワーで足も治るでしょうか。お金があれば、愛があれば、勝手に治るでしょうか?

そんなわけないですね。足を治すなら医者に行きます。死への恐怖も、「ここを乗り越えるぞ」と向き合わないと軽くなりません。じゃあ、どうすれば苦しみが軽くなるのか?

「自分はいつか死んでしまうんだ」という現実に、しっかり向き合うのが第一歩です。

全てのことは、常に変化し続けています。今こうして私が記事を書いている最中も、私の細胞は生死を繰り返して老いていっているわけです。どんなに頑張っても、結果を残しても、最終的にはみんな死んでしまう。自分も、自分の子供も、孫も、最後には死んでしまう。この現実に逃げずに向き合って、ちゃんと絶望する。そうすれば、「もっと発展すれば上手くいくはずだ」「〇〇だったら満たされる」という思い込みよりも、生死の苦しみを取り除くことが重要だと分かります。

自然の摂理

祈れば何でも叶う…わけがありません。誰かが強く願えば本当にそうなるとしたら、世の中はめちゃくちゃです。この世では、自然の摂理がちゃんと働いています。

受験で志望校に受かったのは、本気で勉強して対策ができたからであって、本気の念が通じたからではありません。そして、たまたまその日にインフルエンザになったら受かりません。これは残念なことではありますが、自然とはそういうものです。空気中には色々なバイキンがあるし、気温は操れませんから、体調は完璧にはコントロールできません。

自然とか世の中というものは、人間の都合通りには振る舞いません。できるのは、起こったことに対して対処することだけです。死という現実自体は変えられませんが、この苦しみに自分がどう向き合うかは選べます。ここで勘違いをしてしまって、「みんなは幸せなのに、何で俺だけが!」とか「あんなに頑張ったのに!」などと、対処する以外に仕方のないことを「自分だけの特別な苦しみ」に飾り立てると、苦しいのです。

「あいつの苦しみよりはマシだから我慢する」という話ではありません。自然の摂理で、現実的に考えることです。

本当は、生きるのは苦しいことです。辛い出来事や理不尽があって、生きているだけで大変です。生きるためには他の動物を殺さないといけないし、老いるし、病気になるし、最後には死んでしまう。しかも死ぬのは本能的に怖い。はっきり言って、救いがない。

でも、この事実から逃げずに覚悟をきめて、ちゃんと正面から向き合えば、ようやく冷静になれます。

子供の時はちゃんと死ぬのを怖がっていたけれど、大人になるにつれて忘れていったのかもしれません。

技術が進歩しすぎると、当たり前のことを忘れてしまう

エアコンや新幹線があって快適だと、そのうち「なんで夏は暑いんだ、涼しくする技術を作れ」とか「なんで遅延するんだ、ホームドアを作れ」とか考え始めます。夏は暑いものだし、電車は大勢の人が使うんだから常に完璧には動きません。それは、「そういうもの」です。

「人間が手を加えれば、何でも上手くいく」と思い込んでいるから、ちょっとズレた時に「なんで上手くいかない!」「自分は不幸だ!」などと言って苦しみます。

自然の摂理や偶然は、いちいち合わせてくれません。それは当たり前のことで、みんな同じです。ですが、社会があんまり発展しすぎて、もっと発展すれば何でも叶うかのように思えてきてしまう。本当は、自然の働きは操れないし、世の中は自分の思い通りにはならない。でも色々なことが便利になりすぎて、実感としてはよく分からなくなっている。

暑いなら、上着を脱ぐなり冷たい飲み物を飲むなりする。寒い時は、1枚羽織る。今はこれがまだ当たり前なのですが、「便利なエアコン」が普及したら、それも忘れ去られてしまいます。

そういうわけで、便利すぎる技術は人々を幸せにはしない、と思っています。