INTP 常識的行動を学習することで感情表現を補う

まえがき:筆者のタイプ

筆者が初めて 16Personalities を試したのは確か約6年前だが、それから期間を置いて複数回やった結果、出現頻度は以下の通りであった。

INTP >> INFP > INTJ, ENTP, ENTJ, INFJ

もっとも頻度が高く、親友(ESFJ)から「まさに、って感じ」と評されてもいる INTP を一応自称タイプとする。ただし、直近の結果である下の画像でもわかる通り、T/FとJ/Pはかなり微妙で、自分としてもどちらなのか断定できない。一部サイトではESFJはINTPと相性最悪なんて書かれてるが親友なので、INXXぐらいの捉えかたが良いのかもしれないが、一旦INTPとしておく。

16Personalities の問題点

16タイプなどの「ヒトをいくつかのタイプに分けて理解するもの」には、大きくいって2つ問題があると思うので、あらかじめ書いておく。

まず1つめは、各要素のバランスで見るために、程度(点数)を可視化できないことだ。「論理90点:情緒90点」と「論理20点:情緒20点」が同じ結果になってしまうのである。前者と後者の人間に接した時、より論理的に感じるのはどちらだろうか。そして同時に、心があたたかくなるのはどちらなのだろう?実際の印象としては明らかな違いが出ると思われるのに、結果上の差はない。

2つめは、各個人それぞれの状況やスキルは無視されることだ。たとえば私の場合、「あなたはINTP型だから、研究者やプログラマーに向いています」となるのだが、私のもっとも得意な科目は美術で、その次は国語だったから、残念ながらINTPの適職に就く可能性はかなり低い。これはポケモンに例えると「あなたは攻撃のステータスが高いのでアタッカーに向いています」と言われたとしても、攻撃技より特殊技や補助技に強みがあるならば、特殊アタッカーのほうが活躍できる場合がある、というのに似ている。

そういうわけなので、「同じタイプと診断された人間は、みんな大体似ている」ということ自体、かなり間違いをはらんでいると思う。とはいえ、診断結果に全く意味がないわけでもない。自分と異なる考えかたをする人間とうまく付きあうためには、ある程度便利なツールだと思う。

感情を持つことと表すことの違い

さて、私の子供時代を振り返ると、感情や共感を示す表現が乏しすぎて顰蹙をかうことが多かったと思う。しかし大人になった今は、社交的とかコミュ強とは言わないにしても「ちょっと変わってるけど、こんな人もいるかな」程度で許容されていると感じる。時には拒絶されることもあるが、社会生活に支障が出るほどではなくなった。その変化を起こすなかで重要な役目を果たしたと思われるのが、感情をあらわす表現、言い換えると常識を反復学習したことである。

私は幼少期から今まで地続きで、「感情」という感覚を(当然ながら?)持っており、人並みに悲しんだり悩んだり怒ったりもしているはずだ。ただ、高校生くらいまでは「共感とか思いやりって謎だな。同じ感情がフッと湧き出てこなければ、単純に共感したとは言えない。人によって嬉しいことも違うから、自分に置きかえて想像するのも現実問題として不可能だろう。それなのになぜ皆、当然のようにこれらを重要視するのだろう。なぜ分からないはずなのに、つつがなくやれている(ように見える)のだろう」と思っていた。

だが、あるキッカケによって、共感や思いやりとして評価されるのは「実際に感情を持っているか」ではなく「常識的感性を知っていることを、言葉や行動で示せるか」「常識的な行動ができるか」であると気づいた。

いくら感情を感じていても、どんなに想いが強くても、常識的な発言や行動に翻訳して出さなければ、冷酷だと認識される。逆に、特に感情はなくても、その場面をパターンに照らし合わせて常識的な行動をすれば、優しい人・まともな人とみなされる。乱暴な表現をすれば、「共感」は共感しなくてもできることだし、「思いやり」は思わなくてもこなせる仕事だ。

常識的感性とはどんなものか

かなりヒドイ言い方をした気がするが、これは過去の自分のような INTP(またはINFPとかINTJ)の理解を促すためである。たぶん ESFJ などはこんな辺境弱小ブログの INTP 記事などわざわざ探してこないから、彼らを傷つける可能性は非常に低いだろう。

前述の「あるキッカケ」とは、祖母といっしょに実家へ帰宅したときのことだ。昔は祖母のペースに合わせることなく、さっさと私一人で帰宅して顰蹙をかっていた(がっかりされても「まあいいか」と自然に思ってしまうのが、顰蹙をかいつづける原因であろう)。しかしある時、なんとなく祖母の歩くペースに合わせて一緒に帰宅したところ、「思いやりをもてるようになった」と喜ばれた。「置き去りにしたら “かわいそうだから” 、思いやってペースを合わせよう」としたのではなく、「私もちょっと疲れているから、ゆっくり歩くか」くらいでしかなかったのだが、これは “思いやりのある行動” らしい。もはや常識的感性を知らなくても、たまたま当たる場合すらあるのだが、これがまさに前述の「常識的感性を知っていることを、言葉や行動で示せるか」「常識的行動ができるか」である。ここで初めて、気持ちと評価にあまり関係がないことに気づいた。

それ以前にも、電車で高齢者に席をゆずって喜ばれたり、階段で荷物を持って感謝されたりといった行動をたまにしていたのだが、それは私が “やさしい気持ちを持っているから、常にそうする” のではなく、“たまたま体力が余っているとき、やるべき行動がわかりやすいシーンに遭遇し、粛々とやれた場合” でしかない。「やるべき行動」がわかっていれば、感情が特になくても行動が起きている。「やるべきかどうか、判断に迷う(70歳前後で厳しい顔の高齢者など)」場合は、やったりやらなかったり、やった結果断られたりする。ちなみに、やって断られたら気まずかろうと思われるだろうが、実際のところは「ああ、そうですか」といって平気で座り直している。

常識的感性≒常識的行動とは、一言でいえば「やるべきこと」「ふさわしいこと」である。そこに感情が入る余地はない。そして、こういった「べき・ふさわしい」は、反復学習をすることでパターンを覚えられる。

「常識」を下界におろす

具体的に私がどうやって「常識的感性」を(ある程度)身につけたのか?

実のところ、「常識的感性」は身につけておらず、「常識的行動」だけを学習している気がする。行動さえ出れば感性もあるとみなされる雑な世界なのである。それから、まず前提として「常識」を「絶対に守らなければならない正義観念」から「自分でも使用可能な道具」に貶めておくのが重要だ。

先ほどの祖母とのエピソードに加えて、もう一つインパクトが大きかったキッカケがある。祖母のほうは「感情は行動とはあまり関係ないのか」と気づいただけだが、こっちは「自らの行動を変えなければマズイ!」と思った出来事だ。あまり詳しくは書けないが、「この相手は私にとって重要な情報を持っているので、常識に沿って受け答えをしておかないと、機会を失う可能性がある」と気づいた瞬間があった。趣味に関する情報交換をしている中で、うっかり感情配慮ゼロの文を送ってしまい、返信を読んで「しまった!」とショックを受けたのだ。幸い、交流を止められてしまう形にはならなかったが、「このままでは、将来にわたって明らかに不利益がある」と初めて実感した出来事だった。

それまで「なぜ皆、互いの感情が本当には分からないはずなのに、つつがなくやれているのだろう」と思っていたが、こうなれば分からなくてもやってみる他ない。しかし、怖い。本当にやっても大丈夫なのかと思うし、自分が薄っぺらい人間に変質してしまう恐怖もある。

そこでまず始めたのが「わざと他人に嫌われることをする」だ。これは INTP というよりはアダルトチルドレンに紐づけるべき出来事ではあるが、私はこの体験がなければ常識を身につけるのは難しかったと感じる。当時は学生でコンビニのバイトをしていたが、わざと接客態度を悪くした。電車で優先席に座り、決して譲らないと心に決めた。駅の階段で座っておにぎりを食べ、注意してきた人には笑ってごまかした。こういうことを繰り返していき、「自分もちゃんと人に迷惑をかけられるのだなあ!」と、自らの悪性を初めて実感して感動した。

そうすると、なんとなく吹っ切れて「しょうがないから、おまえらのために常識に沿った行動もしてやるか」という気になる。つまり「常識」への認識を「私は良い人間なので、絶対に守らなければならない!(しかし、常識が何だかは全然分からない)」といった強迫的でボンヤリした認識から「私は迷惑人間だから、間違うのもあたりまえ。わざわざ常識に従ってやったら感謝しろ」ぐらいにまで貶めたのだ。逆の言い方をすれば「迷惑人間の自分でも、常識さえ使っておけば世間のなかでカムフラージュされるのだ、便利だな」ということでもある。これで初めて「常識」が下界に降りてきて、取り扱い可能な “道具” となった。

常識の身につけかた

ようやく本題である。といっても、私が完璧に常識を使いこなして上手くやっているのかと聞かれれば、答えはNOだ。逆立ちをしても ESFJ のような言行はできない、いやまず逆立ちができない(フィジカル的にも精神的にも)。しかし、20代前半以前と比べればそうとうマシになっていると感じられる。

要は、ロボットみたいな不自然な動きになっていても、ひきつった顔になっていても、常識に従ってさえいれば何故か怒られず、嫌な顔もされないという経験を繰り返して、「なんだ、何も考えずに皆と同じ行動をしたらよかったのか」「単純なことじゃんね」と実感することだ。これは起きた瞬間から寝る瞬間まで思考が止まらない人間にとって、コペルニクス的転回なみの衝撃である。「やるべきこと」「ふさわしいこと」あるいは「みんなとおなじこと」を、ひたすら愚直にやればいい。感情表現などしなくてよかったのだ。

最初のうちは「やったほうがいいのか、これ?」「こういう場合はどうすればいいんだ?」と迷いが入って遅れをとることもあるが、職場やコミュニティで何回も何回も何回も「常識的行動をやるぞ」と意識して過ごしていれば、どういう時にどうすればいいのかパターンが見えてくる。とっさに協力できなかった時でも、周りの行動を「型」として認識することができれば1カウントだ。S型がやる常識的行動は反射的すぎて追いつけないが、後をついていければいい。応用の効く法則や計算式を作るのではなく、単なるパターン・型をたくさん丸暗記するのだ。ある程度のパターンがわかれば、もう大丈夫である。

参考までに、一番わかりやすくて簡単なパターンを挙げる。「みんなが荷物を持って運んでいるときは、加勢する」だ。人数が足りているように見えても、思考停止で手伝うのが常識である。実際には、ドアを開けたりエレベーターを操作するなどで、意外な人数が必要だったりもするので、無駄に思えようがノータイムで手伝いに行くのが安定行動である。自分より権力がある人間に「もう足りているから戻っていいぞ」とはっきり促されるまでは、意地でも離脱しないほうがいい。こういう感じで、プログラムのように常識を断行すればいいのだ。

これは、たまに耳にする「女性に好かれるためのコツを身につけたナンパ師が鬱になる」みたいな話と似ている気がする。真心より形式的なほうがいいのか、と。しかし実際には、NT型はこのパターン認識でかなり生きやすくなるだろう。SF型が「周りのことをちゃんと考えてよ!」と言った時、NT型は「全員の性質をすべて考慮したうえで、合理的かつ感情を刺激しない完璧な行動を、3秒で導き出せ」と言われたように認識する。当然、絶望する。しかし本当は彼らはそんな異次元レベルの要求はしておらず「思考停止で周囲に合わせろ」と言っているのだ。字面は同じ「考える」だが意味は真逆で、「感情は傍に置いて、理論を練り上げる」ではなく「理論は不要で、感情に配慮する」なのである。そして「感情に配慮する」とは決して「全員の性質を全て考慮して〜云々」ではなく、「一人だけ違うことはせずに周囲と合わせる」「合理性については考えない」である。正直、これは私にとって感覚を真逆にされたような感じであり、そういうものだとスイッチを切り替えなければできない。しかしこれさえ分かれば、気分はものすごく楽だ。周りに合わせてやってさえいれば、頭の中は自由でいいということなのだから。

子供と動物は例外

ところで、これまで書いてきたことが当てはまらない存在がいる。それが、子供と動物だ。彼らが評価するのは「常識があるか」ではなく「まごころ」である。むしろ常識で丸めこもうとすれば嫌われる。それはヒトの大人にするのとは違って、実際に共感や思いやりを心に覚えなければできない、いわば「真の共感・真の思いやり」とも言える。

ヒトの大人に対しても、常識ではなくまごころで対応して喜ばれることもあるが、この場合は「常識でいくべきか、まごころが良いか」という選択肢が発生する。家族や親友など、かなり気心の知れた関係なら、まごころの比率が高めになる。逆に新しく知り合った人の場合、一定の常識がなければ足切りをされる。

子供や動物とのコミュニケーションは、「まごころ対応の大人」と比較してもかなり直感的である。アイコンタクトや雰囲気で意図を交換して、無言の交流がおこなわれるのだ。この感覚はおそらく誰でもあるわけではないだろうし、遭遇するシーンも都会では限られる。

私が実際にあった例を挙げると、電車の中で「つかれた〜」と言っている子供がいて、その子供と無言で目を合わせて小さくうなずき(次の駅について電車が止まったら、私の席をゆずってやるから来なさい)と伝えた。駅に着いたら席をたって子供と素早く入れかわったが、みごとなシンクロだったと思う。他には、部屋の中に迷い込んできた羽虫に、疲れていそうだったので砂糖水をやったら大急ぎで食べたとか、飼っていた文鳥は爪切りをしてこようとする私の雰囲気を敏感に察知して逃げたりしていた。

「無言の交流」というのがミソなのだと思う。バラエティ番組の動物コーナーで犬猫がしゃべっている演出をされるのは、その点において最悪なのだ。単純に「そんなことは言ってない」となる。架空のセリフを喋るバーチャル美空ひばりが叩かれるのに、犬猫のアテレコが叩かれないのはオカシイのである。

まとめ

この記事は一応、16Personalities における INTP 型の処世術という体で書いたが、おそらく INTP の人間だけでなく、アダルトチルドレンや発達障害(アスペルガー)にも転用できる部分が多いと思う。

私自身は発達障害の診断は受けておらず、今のところ生活に支障は出ていないので受ける予定もないが、幼少期から自分自身が周囲の多数派とはかなり違うような気がし続けている。しかしそれが嫌だとか、皆と近い性質になって溶け込みたいとはあまり思わないので、そこに関しては(私は)殆ど悩まないのである(私の周囲の人間は悩む可能性があるが、まあいいかと思ってしまう)。とはいえ、ある意味での苦労をした結果得た知見ではあると思うので、一つの経験則として書き残しておきたい。