われわれが存在していることに対する「がっかり」

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われわれは、残念ながら、存在してしまっている。

「われわれ」は、ヒトに限らない。動植物や微生物などの生命だけでなく、石ころや川の流れ、宇宙空間や原子にまで及ぶ「がっかり」だ。つまり問題は「生きていること」ではなく、「存在していること」「境界線を持たされてしまったこと」なのである。

なにも存在しない状態、宇宙の外側まで含めた全てのすべてが「完全」で埋め尽くされて静止している状態、これが最善だ。しかし、今のところの人類には到底実現できそうもない。万が一、遠い未来でそれが実現したとしても、無限の時間と試行回数によって、そのうち完全性は崩れてしまうだろう。だから、特にやることはない。

発生現象に対して「がっかり」しているが、個人的に苦しんではいないのがポイントだ。生まれてこなければよかったとは思わないし、人類は滅んだ方が良いとも思わない(人類限定ではなく、すべての存在がなくなるのなら望ましいが、それもどうせ続かないというのは前述した通りだ)。といって、生まれてきてよかったとも、人類に繁栄してほしいとも思わない。生まれてきたものは仕方ない、その中でマシになるしかない。人類がここまできたのも仕方ない。何回めだか知らないが、宇宙ができ、地球が誕生し、単細胞生物が発生し、動植物が陸にあがり、知的活動が始まったこと、そしてその中でおびただしい数の苦痛が繰り返されてきたこと。これら全ての流れは、誰にもどうにもできなかったことであり、神や仏もこの一連の流れに巻き込まれ、誰一人として、いや何一つとして自由にはなれないのだ。それは仕方のないことで、誰にもどうにもできない。だから、悩ましい・苦しいというよりも、ただただ悲しく残念である。

子供を産もうとは思わない。もし子どもがいたら面白いだろうと想像することはあるが、それは親視点・他者視点であり、子ども自身の立場に立ってみれば、存在が始まることは重すぎる。私と夫の愛する子だからこそ、存在させずに完全のままでいさせてやろうという一種の親心もある。とはいっても、もしコウノトリが運んできたとしたら、それもまた仕方のないことだ。産んでも産まなくても、それは私の意志ではない。種としての多様性に包摂された行動であり、遺伝子の掌の上で踊っているだけであり、前段で述べた「流れ」のうちにあることは変わらない。

私のこの現状の思想は、なんといったらいいのだろう。反出生主義、の先にあるエフィリズム、の先にある「反存在主義」とでもいおうか。でも正しさとは関係なくて、実現しようとも思ってないから、主義ではなさそうだな。