「自由」という名前のレールを歩くのか?

虚無 というひとつの行き止りに突き当たって、私はこれから何をしようか・すべきなのかと、なんとなく考えています。

この世界は、全てが何も無く、同時に全てが完全にあります。「私」という概念は周りとの対比で出現しているだけで、「生きる意味」も特にありません。論理的・合理的には、そこに何も「すべき」ことはありません。そこそこ働き、適度に寝食をとり、人助けを厭わずに、自然にのんびり生きていればよろしい。

ただ、「いつも論理的・合理的に、真理に張り付いていなければ “ならない”」という「すべきこと」も、ないのです。あんまり真理を置き去りにしすぎると、戻ってこれなくなる恐れはありますが、「真理だから、従わなければならない」は、繋がるようで繋がりません。

信念ある友人

ものすごい頑張り屋で、面白い友人がいます。

私は前述の通り「人生に “すべきこと” なし」と思って、日々をまあまあに過ごしているのですが、彼はずいぶん頑張ります。あんまり頑張るので、最近は自分の余った時間を彼に分けたりしていました。

彼には彼なりの信念があるようで、中身もなかなか良い考えだと思いますが、とにかく「信念を成し遂げるために働く、そのために努力する」という文字が、もう全身から滲み出ているみたいなんですね。

忙しく“しなければいけない” わけではないのですが、こうなると、なんとなく自分も少しは頑張ってみようかなあ、という気分になってきます。まあ、今も怠けているわけではないのですが。

ただの土に足跡をつけていく

普通はここで「私も何か目標を見つけて頑張ろう」となるのですが、それが本質ではないことは、今までの思索と経験で分かっているのです。

目標や結果は目に見えますが、その前提である信念というもの自体は見えません。信念は自分で見つけるほかないもので、他人を参考にしようがないのです。といって、目標だけをなんとなく真似ようとすることは、まったく意味がない。

目標、すなわち「〇〇になる・〇〇をする」というのは、ひとつの「出来事」であって、通過点です。人生というフィールドに立っている看板です。「私の人生であること」という概念ではありません。目標が色々あるのはいいですが、それらは全てその「人生である」という概念、人生という道に包括されます。

私が求めている答えは「“私の人生である”とはどういうことか?」です。でも、この問は、問になっていません。人生がどうだったか、「“私の人生である”とはどういうことか」は、最後に俯瞰して初めて見えることです。

今考えていることは、過去のことを組み立てて作ったフィクションですから、未来でそのまま上手く使えるかは怪しいですね。今「〇歳になったら〇〇して、次はああして、こうすれば人生は完成できる」と考えてその通りにしようとすることには、ほとんど意味がない。時代が変わると、看板は朽ちたり差し替えられたりします。

人生という道を歩いていく、作っていくのに、看板を目指して何になるでしょうか。看板を集めた数が多い方が勝ちなどのルールはありません。良い会社に入ることや、たくさんのお金や権力、名声などは本題ではありません。それらは単なる結果、または手段です。

重要なのは、その先というか前提にある「人生の仕事」です。「看板コンプリート地図」よりも、コンパスだけを持つのが良いのです。信念という心のコンパスを持っていてもいいかもしれません(私には信念の感覚が少ししかわかりませんが、たぶん北極星を追うようなものです)。

看板が何でもないと分かって、じゃあ何ができるのかというと、目の前に出てきたことを真面目にやることですね。目標があるならそれに向かってやっていけばいいし、特にないなら出くわした課題に当たっていく。目の前に川があるからイカダを作るのはいいですが、砂漠のド真ん中で「そのうち川を通るはずだからイカダを作っておこう」と木を探すのは頭が悪いですね。それで「私は砂漠で木を探したのだから、みんなより凄い」と自慢するのも変な話です。

「やりたいこと」「楽しそうなこと」が出てき次第、それに取り組めばいいだけです。最初から「私は〇〇という過去があって、△△な性格で、だから××をやりたい“はず”なんだ!」というのは、真実ではないですね。それは過去に常識を掛けて算出した建前であって、「出くわした山」ではなく「過去から作ったレール」です。「自由に生きたい」と言いながら「先輩の作った自由という名前のレール」をスイスイ歩いていくのは馬鹿げていますね。

「私は〇〇だから△△して……」などとドラマチックな計画を立てずとも、本能に従うのと同じように自分の心に従っていけば、勝手にオリジナルな人生になっているんじゃないかと思います。たぶん、作品作りでも同じですね。

私の信奉するチルボドのアレキシも、「今はこういうのが流行っているから逆を行こう」とか考えて曲を作ってきたわけではないと思います。実際、彼はインタビューで毎回「スポンテニアスに、無計画に作ることで良いものができる」と言っています。そして、私は彼らの作品にとても癒されますが、彼らが「人を癒す曲を作ろう」と考えて作ったとはとても考えられません。

彼らの曲を聴いていたら、「自分の人生の仕事とは何なのか」という、問になっていない問に、行動で答えを示されたような気がしました。「考えるんじゃない。感じるんだ」という映画の名言が、ここでも響いてきます。