久しぶり、おもちゃの世界

瞑想中に新しい体験をしたので、記事を書きます。かなり抽象的で、怪しく見えるかも?しれませんが、変なことを書こうとか皆さんを騙そうとかは全く思っていないです。

境界線が溶けた

あの世界はいわゆる「禅定」「梵天」ってやつなのか、違うかも分かりませんが、とにかく「別な認識世界」を感じました。

その認識世界には、イス、机、空気など、全てのものの「これは、イスだ」などといった「他のものとは別種の、これがあるぞ」という、モノの境界線がありませんでした。瞑想中は目をつぶっているので、見えていないのですが、自分の体や今いる空間そのものが溶け合ったという感じです。全てが同じ種類のエネルギーとして漂っているような、何も無いのだけど全てがあるような、言語化できないのですが、そんな感じでした。

目を開けてその認識世界から帰ってくると、イスだの机だのが「私はイスだぞ!」「机はこういうものだぞ!」と叫び始めました。ありとあらゆるものの境界線が、無理やり私の認識の中に飛び込んできたのです。「私は、他のものとは別種の、これなんです!」という「境界線の主張」のような圧力を四方八方から受けて、それで「おお、さっきの認識世界は、いつもの世界とはだいぶ違ったな…」と気付きました。

子供の頃の視点

そして、その「境界線がない世界」の余韻がある中で周りを見渡すと、ものの境界線の認識を自分である程度操作できると気付きました。

例えば、ペンケースがあって、その中にはペンが10本あります。この時、「ペンケース+ペン×10」という見方が普通なのですが、意識すれば「ペンケースペンという塊」とか「ペンケース+ペン10という塊+空気の塊」などと、境界線を再構築できることに気付きました。

これに気づいた時、すぐに子供時代を思い出しました。すなわち、子供の頃の「全てがおもちゃに見える」感覚は、このような「ものの境界線が薄い・属性が自由」な認識から来ていたのだろう、と。実際に、そのペンケースは、ペンという木々が入っている寝袋のようにも見えましたし、口を開けたお魚にも見えました。幼稚園児なら、ペンケースを集めて、それらに紙で目玉をつけて「水族館!」などとやるかもしれませんね。

子供の頃はみんなある程度「悟っていた」のかもしれません。それが、年齢と共に知識が増え、すなわち境界線の量も濃さも増えていって、それで「自由な認識」ができなくなっていくのでしょう。

デザイナー、アーティスト?絵描き?として、とても貴重な感覚を得られたと思います。

「芸術と安穏は両立しない、困った」と思っていましたが、瞑想にはこういう良い効果もあるみたいです。