稚拙な思考と独りよがりな感情

街を歩いていると、いろいろな情報に出くわします。それらの情報は、目や耳を通して脳に届き、認識される。すると心に印象が起こる。そしてその印象によって、無視したり笑ったり怒ったり考えたり…と反応します。

瞬間的な思考の稚拙さ

中には、不快な情報もあります。そういうのを見ると、反射的に「なんだこれは?こんなのは、〇〇で、△△だから、ダメだ。これを作った奴とは関わりたくない…なんたらかんたら」というような、もっともらしい思考が、瞬間的にババババーと脳を通り過ぎて行きます。

思考という現象について何も疑いを持たない状態だと、こうして湧いてきた思考に囚われます。頭を乗っ取られます。

たったの1秒にも満たない視覚情報、そこからポッと湧き出た「ん?」が、脳内で過激な排斥運動にまで発展していきます。

思考というのは「瞬間的にババババーと」無意識に起こってしまいます。これは元がそういう造りのようなので、仕方ない。練習すれば「あっ、色々考えているな」と気づくことができるようになりますが、最初は自動で思考が流れていきます。自分の経験や他人からの影響やテレビで見た話、それに気分などを乱雑に掛け算して、答えモドキを出している。しかし、私たちはそれを正しいように感じてしまう。

私達が瞬間的に思考する時、理性的に、論理をもって「きちっと正確に計算している」のではありません。自分のバックグラウンドと適当に掛け算して、なんとなく「うまいこと計算した気になっている」だけなのです。

私には分からないこと

こうして「答えモドキ」を出した私は、頭から放出される悪い感情に支配されます。排斥運動をしたくなります。私の頭の中では、その不快なもの・またはそれを作った者は、糾弾されて当然という地位に格下げされているのです。その格下げが正当なものだと、私は強く錯覚するのです。

ですが実際には、私の「答えモドキ」は「私の個人的なバックグラウンドを元にした、ただの一人の妄想の産物」に過ぎません。その不快なものや、不快な作者の意図するところについては、私は知る由もないのです。

全く見ず知らずの他人が、私の知り得ない意図で作った、私宛ではないモノに対して、勝手に怒ったり喜んだりしているわけです。そして、そういうモノがこの世の中には無限にあります。

残念なお知らせ

怒ったり喜んだりしても、そのモノの内容が変わるわけでもないし、作者に氷水や花束が落ちるわけでもない(そんな評価システムがあったら面白いが)。残るのは、私やあなたの心の不快感のみです。

どれだけ気合を入れても、訴えかけても、みんなが自分と同じ感性にはなりません。世の中に「絶対的に正しいこと」もありません。そうでありながら、感情というのは、自分の中では絶対的なものです。とにかく、なぜか、確固たるものがドンドン湧き出てきてしまうのです。これをそのまま泳がせて外部の世界と衝突させると、合ったり合わなかったりで非常に疲れるのです。芸術家とか哲学者なんかは殆ど合わないんじゃないでしょうか(だから自殺してしまう)。

1つ解決しても、すぐに次の問題が目に付きます。イライラや悲しみが収まることは永久にないでしょう。

何かを解決するのはいいんですが、その時感情に振り回されていては自分が持たないのです。

イライラは尊いものじゃない

といっても、目をつぶって街を歩くわけにはいかないし、耳も閉じられません。じゃあどうすれば「排斥運動」をせず、無駄なエネルギーを使わずに済むかというと、情報を受け取るのが避けられない以上、その情報にいちいち反応するのを止めればいいですね。

…と、言うのは簡単ですが、最初はなかなか難しい。技術的にもですが、まず大きな心理的抵抗があるのです。

すなわち、私達の感情というものが、とても美しくて尊い宝物のように見える。確かに美しく見えるのです。そのように「見える・感じられる」ことは、間違いない。

もう「感情は美しい」と確信しているのですが、冷静に眺めてみれば、本当に美しいのかは非常に怪しい。見た目が抜群に良い性悪な人のような感じです。パッと見素晴らしいものに見えるが、私たちを惑わせ苦しめてくる存在です。時々すごいワクワク興奮することを囁いてくれますが、ムスッとすることも多く、キレたり泣きわめくこともある。私たちはそれをイチイチなだめなければいけません。

「見た目はいいな」と思うだけならいいですが、「こんなに美しいんだから、中身も美しいはずだ。私に良い影響を与えてくれるはずだ」というのは、ただの思い込みですね。恋していると、その人がどんなに性悪でも「その不完全さが美しい」とか思ってしまいますので、「感情は、見た目の良い性悪みたいなものだ」と認識したほうが自分のためです。もう感情に恋しちゃってる人は、瞑想して覚めてください。

恋してる時に「冷静になれ」なんてのは無理なのですが、とりあえずここに「覚めなよ」という看板は立てておきます。感情にうんざりしてきたら、覚めようとしてみてください。

聡明な無を見てみよう

そういう激しい存在とは至近距離で付き合わないほうがいいでしょう。芸術で利用するには便利ですが(でも、そんな器用なことはできないと思われる)、いつも隣に置いておくと大変なのです。身も心も財布もクタクタになります。ロックスターは得てして自己破壊的なのです。

といって、いきなり感情をポイッと捨てるのは無理です。感情は、私たちに「感情は貴重で美しいんだぞ」「自分がいないとあなたはダメだから」などと上手いこと言って、なんとか振り向かせようとしてきます。困りましたね。

ですが、あなたは新しい人を見つけます。無常さんです。とても穏やかで聡明で、自分を傷つけない、一緒にいたい存在です。

無常の穏やかさが分かったら、「感情に付き合わされても、意味ないな」ということが根本的に分かります。ここまできたら、もういくら感情が色々訴えてきても「はいはい」という感じです。

感情を止めるなどと聞くと、なんとなく「人間じゃなくなってしまう」ような感じがするかもしれませんが、それはイメージです。「ワタシハ アンドロイド」のような感じにはなりません。むしろ、自然と同一になれるような心持ちなのです。