認知的に閉ざされている

先日、たいへん興味深いお話がTwitterでバズっていたのを見かけました。いわく、前世の記憶として「平安時代にお坊さんをしていた記憶があって、当時の生活について詳細に思い出せる」ようです。

私は、こういうのは信じてみるタイプなので、今はとりあえず信じています。なんで信じるかというと、こういう話は嘘だという証明ができないから、じゃあ真偽がわからないなら次に優先するのは善悪なので、悲しい思いをする人が出ないように、とりあえず信じます。本当のことを言っているのに嘘つき呼ばわりは、悲しいですからね。

で、この方の前世(の前世の前世の…?)は平安時代に生まれており、その時のことが現在も思い出せる。これに触発されて、いろんなことを考えました。そのメモです。

輪廻はある?

コメント欄でも「前世記憶がある」という人が出てきていて、こうなると前世がある、言い換えると輪廻転生があるのかなあ?という感じです。お釈迦様も、(一説によれば?)天眼通で人々が輪廻していく様子が見えたらしい、です。私には第六感なるものが全くないので、想像もできないのですが、自分の感覚だけを基準に否定することはしません。そして自分の感覚以外を参照することはできません。

ところで、今の私の世界観は「この世は現象だ」みたいな感じです。素粒子のような「全ての素」がうねっており、それが成り立ちでつながっている。その「素粒子のうねり」的な流れが互いに干渉したりして「現象」または「蜃気楼」的な感じで「私」や「世界」が現れるのだ、私の見ている世界は仮象なのだ、と思っています。

で、この世界観の中だと、「前世」はふつうに発生します。全部がうねりの見せる現象なので、どんどん転生します。が、人間がまた人間に転生するのは極低確率です。それも、この方のように、同じ国の約千年後、自分に似ている個体として転生するのは凄まじい運だと思います。人間が植物に転生したり、波が犬になったり、宇宙のチリが空気になるのはよくあると思います(全部想像です)。

記憶は脳由来ではない?

で、こうなるとひとつの思いつきが現れます。「前世の人物の脳と、現在の自分の脳は違うものなのに、前世の記憶があるとすると、我々の記憶の出処は脳ではないのでは?」人間には見えない場所に記憶の格納場所があるとか、または「うねり」全体に記憶格納機能があるとか、とにかく記憶というものは己の脳由来ではないんじゃないかと思えるわけですね。

たとえば、人が死にます。で、火葬します。そこで脳も焼かれます。そのとき、人間の目には見えない記憶とか概念も「うねり」に還るんじゃないか?または、人間の肉体には境界線がしっかりあるように見えるけれど、実際は肉体というのは周囲の「うねり」とひとつで輪郭がぼやけており、そのボケ部分に個人の記憶が持たれているんじゃないか?みたいな感想です。

でも、脳の手術で海馬を切除したら記憶能力に影響が出たという話もあるので、やっぱり記憶の出処は脳っぽいですね。謎です。

瞑想するとクールダウンできるのはなぜ?

ちょっと話逸れますが、私は去年瞑想を続けた結果、上のような「うねり」の世界観になりました。また、瞑想すると、頭の中でわんわん鳴っている音が静かになって、精神的にも落ち着いてきます。

それはいいんですが、「なんで瞑想でそうなるのか」は、ちょっとわからないですね。これまた「とりあえず」実践したら、教えてくれた方々のいうとおりの結果になったんですが、科学的にどういうことが脳の中で起こってるのかは、分かりません。

スピリチュアルと科学の境界線って、どこなんでしょうね。再現性かな?でもじゃあ「瞑想で無常を知る」は再現性があるっぽいから科学なのか?

「一度きりの人生」じゃないなら安心

完全に直感的な感覚で、「輪廻するんなら、今の人生で失敗しても大丈夫だな」と感じられます。別に「一度きり」でも失敗していいのですが、単純に「次もある」と思うと、身体の感覚としてヒシヒシと安心を感じられます。

分からない!!

もう、すがすがしいほどに、分からないですね。生きるというのは。多分、こういう「向こう側のこと」は人間には、少なくとも第六感の欠落した私には、「認知的に閉ざされている」のだと思います。人間に生まれて、人間の感覚でしかものを感じたり考えたりできないし、自分以外のクオリアは体験できないから、最終到達点も「私から見た真理っぽいもの」以上はないんですね。鳥には鳥の、宇宙人には宇宙人の「自分から見た、真理っぽいもの」があるのみ。

いやあー、もう、本当に何も分からないんだから!私は、なーんにも、いっさい、まったく、わからない!ということが、改めて分かった機会でした。