昔から変わらない私がようやく現れてきた

「私は変わったのだ」と、何回か言ったことがある。

自称なので、客観性は分からないが、「私は変わったぞ!昔とは違うんだ!」と叫び周りたくなるくらい、心の変化はある。人生経験を経て、心の様子は確かに変わったのだが、よくよく思い出してみると、昔から私の性格はあまり変わっていない気もする。

いや、言い方の問題かもしれない。

「私が変わった」のではない。

「変わらない私が、ようやく現れてきた」のだろう。

柔らかい子どもの心を守るため

私は、心に鎧を着せる必要があったのだと思う。その鎧は成長と共に重く、硬くなっていき、15、6の頃には、ある意味での完成を迎えた。

それから紆余曲折あり、20のある朝、その鎧に「ピシッ」と一筋のヒビが入った事は、忘れもしない。風穴である。その隙間をきっかけにして、私の「心の鎧」は少しずつ剥がれ落ちていった。

今は、黒く硬い鎧はすっかり脱ぎ捨てられた。めでたい。代わりに、ゴム製の盾を持っているような感じがする。

……さて、「なんだこの話」というところだが、ようは「鎧の奥から、本当はずっと変わらなかった“私”が現れてきたのだが、まるで“鎧を着た私”が変化をしたように見えるよネ」ということだ。

「私」は大して変わっていない。変わったところは、鎧を着てるかどうかなのだ。

挙手の義務

今の私は、まあ授業中によく挙手する。「自分は、〇〇だと思いますけどねぇ!」と、却下を恐れずに言えてしまう。反論されても「あ、そーですね」とヘラヘラできるようになった。ちょっとバカっぽいと思う(前提として私は馬鹿ではあるが)。少し緊張はするが、楽しさが大きく上回っている。

昔はそうではなかった。いや、挙手自体はした。しかし、かなりネガティブな挙手だった。

「誰かが挙手をしないと授業が進まない」という、あのギスギスした緊張感に耐えかねて、毎回手を挙げていた。挙手待ちの無駄な時間を減らしたいという考えもあった(今思えば、あれは多くの生徒に必要な「考えタイム」だ)。挙手ができる私には、挙手の義務が課されているような気がしたのだ。その上で、「いつも自分が挙手をしたら、授業がつまらなくなるのでは?たまには挙手を我慢したり、わざと間違える方がいいのか?」などと、教員や他生徒に対する妙な心配までしていた。

その一方で、みんなの前で何か言うこと自体は、緊張はするけれど楽しかった。今もそうだ。しかし、昔は上記の感じだったので、「挙手はしたいけど、楽しいからって自分ばかり発言していいのだろうか」と毎時間悩んでいた。みんなが本当に恥ずかしがり屋で挙手なんかしたくないのか、それとも私のせいで我慢をしているのか、分からなかった。当時はコミュ障だったので確認もできなかった。そして実際に、私以外が発言しなさすぎて、教員から「あなたはちょっと待ってて」というジェスチャーを貰った。

「発言したい私」は、昔から変わっていない。ただ、昔は鎧があったのと、子供だったので「控えた方がいいのでは…」などと余計な気を遣っていた。大人の今ならば、そういう時は友人や教員に相談するから、「子供だった」というのも大きな原因である。

鎧が取れて大人にもなれば、心持ちはかなり変わる。性格や傾向は大して変わっていなくても、行動する際の気持ちが変わった。それで、「私は変わったな。前よりも堂々とできるわ」と言うわけだ。