完璧を選ぶのもまた自由

絵というのは、「自由に・のびのび」描かなければいけない、と思い込んでいました。でも、そんなことはありませんでした。キッチリ描いても、いいのです。

完璧な自由帳

割と最近分かったのですが、私は「自由帳」「クロッキー帳」「手帳」など、「〇〇帳」と名のつく冊子を、上手く扱えません。持って行っても、全然開かないのです。

ノート、板書も苦手です。小中学時代はノートをしっかり取らなければいけませんでしたが、今は雑なメモしかとりません。スケジュールも、スマホアプリで全部タスクにします。

手書きの手帳やノートが苦手なのは、完璧にできないからです。手書きだとどうしても行幅が不揃いになったり、1ページに収めたいところが収まらなかったり、逆に収まらないのを警戒しすぎてダダ余りしてしまったりと、事故が頻発します。見開きで見たい要素なのにページの進行と合わなかったり、加筆が出たら最後の行だけ字が小さくなったり……と、とにかく「最後の最後まで書いてみないと、綺麗に収まるか分からない」のが、完璧主義的な私にとっては、ストレスなのです。

自由帳やクロッキー帳も、特に何も理想形は無いんですが「完璧な1ページ目」「理想的な2ページ目」などが、どこかにある気がしてしまう(他人のページは割と完璧に見える)。その「いい感じ」には「自由にやった結果」という要素が含まれているので、もうそれは大変難しい。不完全な1ページ目、なんだか違う2ページ目…それが気持ち悪くて、いつも最後まで使い切れません。

そんな私が「自由に・のびのび」描こうとすると、どうも「完璧な自由らしさ・理想的のびのび感」を探してしまう。これじゃ、全然自由じゃないですね。

完璧にやってもいいよ!

ということで、最近は自分自身に「キッチリやっていいよ!」「完璧を求めてもいいよ!」と語りかけながら作業しています。

紙は、100均の「らくがきちょう(B5)」を1枚ずつバラして使います。そして、左上から順番に、小さいラフを描いていきます。

これは「堅苦しくて、つまらない描き方」でしょうか?

でもこれが、私にとっては一番楽しくて、しっくり来るやり方なのです。「自由らしく」描くよりも心が落ち着きます。

「完璧主義」というと、何だか人間として未熟なようですが、短所は長所です。そして長所が短所です。

じゃあ、長所を短所と見なして無理に抑え付けるよりは、伸ばす方が効率がいい。私にとって当たり前の感覚は、ある他人にとって手が届かない宝なのである。ポケモンも、基本的には良い所を伸ばす方が強い(でもB振りリザY大好き)。

ポイントは「完璧にやって“も”いいよ!」と、自由度を作っている所ですね。「自由にのびのび描きなさい!」ではなく、「自由に描いてもいいし、完璧を求めてもいいし、その中間でもいい」ってことです。そこの選択から、自由にします。なので、「左上から順番」ではないこともあって、それもまた良しとします。

完璧度を自由に選べる人

正直なところ、完璧主義的な自分は、あまり好きじゃないです。多分、「自由人」のことは妬んでいます。

完璧主義的なキャラって、漫画じゃ絶対に「自由な主人公」の奇策に負けるんですよね。「我らの完璧な防御が破られた、だと?!」とか「何?!データ上では完璧な対策だったはず…まさか、試合中に成長しているだと?!」みたいになります。悪役には主人公以上の努力があるというのに…。主人公は早く「才能・環境・運です」と認めなさい。話が逸れました。

「自由人ごっこ」「ヤンキー(?)ごっこ」は、何度かしたことがあります。中島義道の「カイン」を読んだ影響です。で、そこで得たものの一部は、今の私の糧になっていますが、全体的には「自由人ごっこ」は「ごっこ」で、私の自然体は「自由人」ではありませんでした。

理想どうこう、思考うんぬん以前に、体感として、キッチリしてる方が心地好いんですよね。こりゃ、しょうがない。生まれつき、内省能力が高くて、色々気になるんでしょう。

ただ、大人になって色々考えたり体験したりしたら、「キッチリで心地好い」からといって、しんどくなるほど・周りを思いやれなくなるほど完璧さを求めてしまうのは問題だ、と気付いたのです。

そういうわけで、私は「自由人」には向かなさそうですが、「完璧度合いを自由に選べる人」になろうと思います。