一見退化したように見える進歩

今まで散々、「瞑想で無常を知る」「自我や感情をコントロールする」などと書いてきましたが、どうやら「その先」に来れたようです。が、何か変わったのかといえば、何も変わっていません。むしろ、一見退化したようです。

スレスレな日

先日、やたら「他人とスレスレ」な日がありました。

朝はJKのチャリとぶつかりかけ(ほぼ無いことだ)、目の前の人が荷物を落としてそれを拾い(稀にある)、夕方にはクラスメイトを注意し(何年ぶりに他人に怒りました)、帰り道ではおじさんに足を踏まれかける(ほぼ無い)。ここまで来て、雪に滑らなかったのが不思議なくらいです。

スピリチュアルは信じませんし、偶然の重なりでしょうが、自分の中の変化が自我の突出として他人とぶつかってるのか?などと思いました。

仏教、瞑想との出会い

ちまたでは「悟る」という言葉で表される状態、またそれを求める人々がいます。私も、そんな感じでした。

私が瞑想を始めたキッカケは、哲学の延長です。ですから最初はただの好奇心ともいうべき気持ちで、始めました。で、唯識や瞑想について調べると、とうぜん仏教の記事が出てきます。それらを読んで勉強・実践していくうちに、だんだんと「仏教徒っぽく」なっていきました。

ただ私は懐疑主義的なので、正解を設定している「宗教」という形とは相容れません。ですが、仏教には何かヒントがあると思って「悟りとは…」「悟るとどうなるのか」という記事と自分を照らし合わせて、「じゃあ、自分はまだまだだな」と、そこに到達できるように毎日瞑想に励んだりしていました。

「悟る!」という目標を明文化して設定したわけではなかったのですが、気持ちとしては実質的にそうなっていました。純粋な好奇心です。悟ったらどんな感じがするのか、ただ興味があったのです。

聖者も性自認も極論自称でしかない

(現時点での、私の)結論からいうと、べつに悟らなくていいです。というと、「じゃあ君は“悟って”、そのうえで意見しているの?」という話になりますが、それは分からないです。

私が感じられるクオリアは私のものだけなので、「悟り」という共通クオリアがあるとしても、私の感覚とそれが合致しているかは知り得ません。霊能力者とかお坊さんに視てもらうことができるかもしれませんが、その霊能力者やお坊さんも「私だけのクオリア」の中にいるはずです。私だけでなく、全員分からないことなのです。悟りというのは性自認と同じで、極論自称するしかないことです。

ただ、自分の中の感覚は、この9ヶ月ほどで激変しました。「瞑想をしたこともない自我の状態→瞑想をして、無常を知る→自我や感情に振り回されたり、コントロールしたり、色々格闘する→まあいっか、と思う」という流れです。
その一連の流れを踏んだ上で、今は「べつに悟らなくていっか」「感情に振り回されてもいいや」「自我に取り込まれても別にいいや」と思っています。これが、果たして「悟り」なのか、別のものなのか、そうでないのかは、誰にも分かりません。

自己申告の信頼度には、その内容や体感の強さだけでなく、言語能力・コミュ力・自己主張の強さ、それから全く関係ないのに社会的地位なんかも係数として掛かります。

私は、はっきりと「ああだ!こうだ!」と主張するのは、あまりしません。考えというのは、時代や年齢と共に常に変化していくものだと思っているので、自分の意見が「絶対不変の正解」だとは思われたくないのです。

感情コントロールは、絵をかけるとか足が速いとかと同じ、「技術」です。で、技術があるからといって、絶対にそれを生かさなければいけないということはありません。例えば、足が速い人は全員陸上選手になるべきか?といったら、そんなことはないですね。ただ、感情というのは他の人に影響を与えるシロモノなので、コントロールできる人はする方が、周りが助かります。

できるなら、人間みんなが「生きるとは何か?」「私は何者か?」と疑問を起こして、それぞれに考えたりして、自我というものの性質を確かめてほしいと思いますが、人には向き・不向きがあるものです。

哲学者→求道者→普通の人

正直なところ、仏教の教えを知ったからには、立派な人格者にならなきゃいけない気がしたんですね。瞑想するからには、ただのリラックス法としてこなすのではではなく、無常を知らなければいけないと。

そして、いつの間に、それが目的になって… 怒りが湧いた時、自己嫌悪に近い感情が出るようになっていました。「私は瞑想をして無我に至りたいんだから、怒りなんか感じるのはまだまだ!」という感じですね。果たしてその状態が進歩なのかは怪しかったですし、もし「悟ると感情がなくなる」のだとしたら、寂しい話です。

悟っても、悟らなくても、結果的には変わらないと思います。一人悟ったくらいで、大いなる存在が何か忖度してくれるとは思えません。

ただ、例えば「世界中を回ったけれど、日本に住み続ける決断をした」と「海外のことは知らないけど、日本に住み続けている」では、結果が同じでも感覚が違います。自分の内に起こる感覚について、そういう違いは感じます。

私は、哲学者から求道者を経て、普通の人になったんだと思います。