人間であるという諦め

時々、特に理由もないのですが「自分の書いた記事は、ものすごく変なことを言ってるんじゃないか?」という気分になり、しばらく更新が止まったりサイトを停止したりしてしまうようです。実際に記事を読み返してそう思うのではなく、読み返してもいないのになんとなく記憶上のイメージで変な気がするのです。

で、久しぶりに自分の書いた文を読んだら「なんだ、全然変なことは言ってないな」と安心して、こうしてまた何か書いてもいいかなあ、という気分になるわけです。

環境に影響される

しばらく新入社員として働き、改めて実感したのですが、人間というのはやはり周りの環境に影響されてしまいます。

専門学校時代はストレス源が少なかったので、常に落ち着いた心持ちで過ごせていましたが、会社というのは専門学校という「居心地のいい変な人集団」とはだいぶ違う。たまにストレスがかかるくらいなら穏やかに過ごせますが、毎日毎日何時間もストレッサーと一緒に過ごす、となると流石に精神を乱されます。自己啓発や瞑想でかわせるレベルを超えています。

こうなると、お坊さんたちが修行するため出家するのは仕方ないことだと思えます。人間の精神は周囲の環境によって左右されてしまうものだ、と人間の限界を諦める。良い言い方にすれば、身の程をわきまえる。

ずいぶん前に「仏教の“悟りの階梯”、阿羅漢は出家しないと無理だなんて、本当か?」というようなことを書いた気がしますが、今では本当のような気がしています。あの本には「阿羅漢になるための条件が出家なのではなく、阿羅漢の直前段階になってしまったら出家しないと精神が持たない、という順番です」的な感じで書いてありましたが、どっちでも実質あまり変わらない気がします。

ピカチュウはイシツブテを倒せない

話を逸らしますが、私の場合は「社会不適合者っぽいので、独立する方が良いのでは?」という話になってきます。しかしすると「サラリーマンですら難しいのに、独立はもっと難しいぞ」という論調が出てきます。ですがこれは相性の問題です。

私がピカチュウだとします。「サラリーマンとして勤めること」はイシツブテです。で、「独立して生活していくこと」がギャラドスだとします。

どう考えても「イシツブテよりもギャラドスの方が強い」のですが、ピカチュウにとってはイシツブテの方が強敵です。

まあ私がピカチュウなのか、モクローなのか、クロバットなのかは分かりませんが、相手の客観的強さだけ見て判断するのはどうかなということです。

ついでに言うと、「社会不適合者」は本当のところは「資本主義社会不適合者」とか「日本社会不適合者」ではないかと思います。それぞれに適合する小社会があり、また不適合な小社会があるはずです。「社会」という言い方は広すぎで、例えば今経済的に成功していたり楽しく生きている人が、共産主義社会の下でも能力を発揮し認められるのかといったら、そうは言い切れないのでは?と思いますね。

人間というシステム

人間は…というか、全存在は…いや、森羅万象は、周りによって定義づけられる存在ですね。ネガティブスペースが全てです。その意味から言っても、どうあがいても環境からの影響を逃れることはできない。

また、「この人間=私」の認知能力自体が私自身であると同時に、私は認知能力の上に乗っているしかない存在であり、しかしこの認知能力は私のものではないわけです。この人間というシステムに、頭の先からつま先まで完全に一体化されてしまっている私には、「ほんとうの」自由意志とか「ほんとうの」感情というのは無い。今、便宜的に使っている「私」という存在すら、あるのかないのか、どちらとも言えない。それでも認識というのは勝手に私に送りつけられてきてしまう。

そしてこの仕組みの上で、人間が環境に左右されてしまう生物であるならば、より快適な環境に移住するのは当然のこと。「快適な」というのがポイントで、「凄い」とか「儲かる」ではありません。