カッコよくありたい

カッコよくありたい…

己の行動を顧みる時、どうもこの「カッコよくありたい」という気持ちが、前提のように敷かれている気がする。

といっても、誰の目から見ても「カッコイイ人」になりたいわけでは、なさそうだ。わが無意識に流れる方向性は、漢気あふれる正義者でも、クールな参謀でも、さすらいの旅人でも、超越した人徳者でもない。とはいえ、それらの一部の要素は多少入り混じっている。

いつ、なぜこのような「無意識の方向性」が出来たのかは、分からない。元の性格かもしれないし、アニメキャラに憧れたのが始まりかもしれない。ただただ、私の中だけにある「理想の自分」のような、他人から見てそれはカッコいいのか知らないけれど、とにかく私の心には独特な「カッコよさ」のベクトルがあるのである。それを、おそらく無意識のうちに一日24時間、週7日間追いかけている。

私がそのように拘りを持って過ごしていても、他人はまったく気付かない。仮に拘りを手放したとしても、やはり気付かないはずだ。完全に自己満足である。

青い拘り

であれば、そんなこだわりは手放した方が楽じゃないか。確かにそうだ。間違いなく楽になるはずだが、それをしようとは思わない。

20歳を過ぎたころから、気分を楽にするために、色々な拘りを捨ててきた。その真骨頂が24歳で始めた瞑想だったのであろう。そして確かに、20代の半ばに入ってからは、随分と気分が楽になってきた。瞑想を始めたら、さらに楽になった。10代までの絶望的な精神状態と比べたら、ほんとうに身軽で陽気で、うきうきするようだ。

…しかし、さまざまな拘りを捨て、気分が楽になるたびに、「何か大切な美しいもの」が身体から抜け落ちていく感覚がしたのだった。

最初のうちは、「まあ楽になったのだし、別にいいだろう」と思った。かなり抜け落ちてしまった後も、「これが大人になったってことだな」と感じた。

もう、相当「何か大切な美しいもの」は抜け落ちてしまった。これは少しだけ寂しいが、悲しいというほどではない。ただ、そんな中で、自分の無意識に「カッコよくありたい」などという、如何にも青臭い、しょうもない、「何か大切な美しいもの」に限りなく近い、懐かしいものを発見した。それで嬉しくなって、Wordpressを開いた次第である(文体が全然嬉しくなさそうだ)。

誰もいない部屋の中でも暴言を吐けない

感情を発散するとき「言葉に出す」というやり方がある。

怒っている時など、一人静かな部屋の中で、どんな暴言を言っても誰にも聞こえないのだが、それでも私は押し黙る。「誰にも聞こえない」のだが、それでも言えないのは「私が聞いているから」なのだと思う。一人、部屋で、暴言を吐く… こうする自分の姿をイメージする。斜め上からの視点になる。ああ、これは…明らかに「カッコよくない」。こんなのは、かつての私がなりたかった姿ではない。こんなことをしたら、過ぎし日の自分自身にすまないと思う。だから、言わないのだ。

馬鹿げているとは思うが、「カッコよくありたい」という(無用な)拘りは、ひとまず捨てないことにした。

ただ、そうとは言っても、人間なのだから感情というのは湧いてくる。

怒りについて

私はほぼ怒らない。より正確には、怒りを表すことが少ない。心の中で実は怒っていることは、たまにある。しかし「あまり怒らない」のがカッコいいぞ、と思っているのもあって、実際に怒ることはかなり少ない。年に一度ぐらいだ。

今までで一番「よくできた、カッコいい怒り方」をしたのは、約一年前のことだ。クラスメイトを静かに怒った(叱った、かもしれない)。

一年前にはちゃんと怒れているし、なんなら数ヶ月前には「かなり幼稚な怒り方」もできた。思いがすれ違ってしまった相手をペシペシ叩き、悪態吐いていた。

それだというのに、最近の私は、また怒りを押しつぶしている。ああ、また、昔と同じことをしている・・・なぜ戻っているのか?自分の変化なのか。環境の変化なのか。あるいは、特定人物に対するトラウマ的反応、反射行動なのか・・・

もしかしたら、さらに自己変化を起こす時なのかもしれない。それは、よくよく考えてみないと分からない。