私は「不機嫌さや怒りで他人をコントロールしようとする人種」がかなり嫌いです。彼ら彼女らから発される「コントロール・オーラ」とでも呼ぶべき圧倒的な空気汚染は、とても常人に耐えられたものではない。
しかし、今回の記事は彼ら彼女らを糾弾するためのものではありません。あまりにも「怒り」に弱すぎる自己を分析し、現代社会に対応しやすくしようというものです。
4倍ダメージ
なぜそんなに怒りに弱いのかというと、1つの怒り現象に対して「4倍ダメージ」を受けているからではないかと考えました。具体的に並べると
- 怒り現象そのもの
- 怒っているのは自分のせいだ
- 怒りに対して怒る自分
- 怒りに対して怒れない自分
1.は、怒られたという事実からのダメージです。これは通常のダメージですね。
2.は、「この人が怒っているのは私のせいなのだ」という責任感(?)からのダメージです。これは事実というより妄想で、怒るかどうかは怒る本人の意思です。なので無駄なダメージその①です。
3.は「怒っている相手に対して怒りを覚える自分」への罪悪感から来るダメージです。怒るのはよくない、と教えこまれているので、怒ってしまった自分に対して罪悪感が湧きます。また、目の前で怒っている相手と同じくらい自分は醜いのだ、という感覚にもなります。ですがこれも無駄なダメージその②です。
4.は「怒っている相手に対して怒りを覚えたが、結局キレることができなかった自分」への無力感から来るダメージです。無駄なダメージその③。
これでダメージ4倍となり、一発の怒り遭遇で一気に赤ゲージまで削れてしまいます。
この人が怒っているのは私のせい?
1.は通常ダメージなのでまあいいとして、2.以降への対応策を練らなければなりません。まずは2.の「怒っているのは自分のせいだ」からのダメージです。
まず怒りというのは期待に対する裏切りから発生します。「こういう場合はAだろうと思っていたのに、あいつはBをした。ありえねぇ」という形です。
人は生まれも育ちも違うもので、「こういう場合はAだろう」が万人同じわけではありません。でも、怒る人はそれが当然だ常識だと言わんばかりの態度で怒ります。やれやれだね。
ここで責任感の強い人々は「Bをした自分」に注目します。自分がBさえしなければ、Aしていれば、あの人は怒らずに済んだのだ、と考える。でも自分にとっては「こういう場合はB」だったりするから、判断基準がもうわからない。こうなると、直ちに自信がなくなっていく。
しかし、べつにBじゃなくても、CでもDでもあの人は怒るわけです。EでもFでもZでも怒ります。なぜなら、そういう時に怒る人だからです。怒らない人だったら、BでもCでも何でも怒りません。
そう考えると、「Bをした自分」の責任が無限に希釈されてこないでしょうか?
根本的な原因は、怒ったあの人が「Aだろう」と思い込んでいたこと、そして怒りを抑えられなかったことだと思えてこないでしょうか?
これが例えば仕事上のミスで怒られたとか、自分に落ち度があって迷惑をかけてキレられたとかなら、それは都度直せばいいでしょう。でも「直す」と「余計なダメージを受けて落ち込む」は別の話です。
同じ条件を揃えても、怒る人は怒りますが、怒らない人は怒りません。条件が同じなら、その結果に至った原因が特定できます。怒る人だから怒ったのです。
怒る自分も、怒らない自分も嫌い
次は3.「怒りに対して怒る自分」と4.「怒りに対して怒れない自分」からのダメージです。
自分の感覚を具に観察していて気付いたのですが、私という人は、怒る自分も、怒らない自分も、両方嫌いなんですね。
怒るなんてのは、醜いし、未熟なことだし、カッコ悪い…と思っている。同時に、怒らない(怒れない)というのも、情けなくて、弱々しい、自分の考えを表示できない…と感じている。
つまりどうなるかというと、怒っても怒らなくても、自分自身を攻撃してしまうわけです。怒りに触れた瞬間、自分で自分を責めることが確定してしまう。
しかもたいていの場合「怒りに対して内心では怒ったが、怒りを表明できなかった」という形になるので、内心で怒ったことには自責の念を覚え、怒りを表明できなかったことにも無力感を覚えます。これは大変困ったことです。
怒る自分も、怒らない自分も素晴らしい
大変困ったので、思考回路を新しくします。まあやることは単純です。
「怒りを感じられる私、素晴らしい!」
「怒りを表出させない私、素晴らしい!」
…という文言を、怒りを感じるたびに念じます。
「素晴らしい!」がなんか変な感じなら、「えら〜い!」や「強い!」でもいいでしょう。
そうすると、何十回もやるうちに思考回路が書き換わるはずです(まだやってないので推測ですが、経験上そうなります)。
現代社会への対応
なぜわざわざ思考回路を書き換えたりしなければならないかというと、現代社会で生き抜いていくためですね。「私」という存在を大事にしすぎていては、適応できない…まあ、「私」は本当はいないのですが。