個性爆裂と諸行無常

考えをまとめるため、思いついたことをダラダラ書こうと思います。

「個性を爆裂させて生きなければ仕方がない」

この世に一個体として生まれてきた以上、他の個体との違い、言うなれば個性を出していかなければ「仕方がない」のだと、風呂上がりにピンと思いついた。「ピン」と思いついたことは、私の中ではかなり正しく感じられる。正しく感じられるものは、ひたすらそう感じるのだから、これについて書き残しておこうと思うのである。直観を信じているのだ。

「仕方がない」それは、個性を出すことで認められるとか、儲かるとか、楽しいとか、そういう俗な話ではない。認められなくても、儲からなくても、楽しくなくても、個性を爆裂させていかなければならない。

例えるならば、野菜である。カレーを作る時、ニンジンとタマネギとジャガイモを用意するだろうが、それは「ニンジンであるということ」「タマネギであるということ」を求めて、材料として揃えているのだ。ニンジンの自我を持ったピーマンがいたとして、そのピーマンは(夏野菜カレーを除いては)カレーになれない。ニンジンなのだから、ニンジンであればいいのである。そうすれば、ニンジンという個性に合わせた調理がなされる確率が高まる。周りに合わせてピーマンになっては、本人(本野菜?)も周りも不幸になるだけだ。

「仕方がない」とは「そうである意味がない」ということだ。私という人間に生まれた意味がない。ただ、個性を完全に消すことはできないから、「周りに合わせて生きる人」も完全に他と同じ個体にはならないし、だいたいその「周りに合わせる」というのもまた個性である。

何も無い世界でなぜ個性を爆裂させなければならないのか

個性を爆裂させて生きなければ仕方ないのだが、一方で、世界や人生に意味や価値は無い。個性にも意味や価値は無いのだ。「仮の意味」「仮の価値」は人によって色々あるが、本当のところ、この世界は「ただあるだけ」である。

しかも、「私」は本当のところ存在しない。周りのものから影響を取り込み続けた「影響の集合体」が、周りとの対比で有るように見えているだけのこと。私が行為者なのではなく、私を通して宇宙意志が現れるような感じだ。なるようにしかならない、ということ。これは決して悲観的・厭世的・諦観的な感覚ではなく、ニュートラルな理解だ。

ここで「意味が無いからこそ、自ら意味を創り出そう」とか言うつもりは一切ない。それは欺瞞であり、苦し紛れの逃げである。そんなふうに「レッツ・ポジティブシンキング」に逃げていたら、いつまでも自分を誤魔化し続けることになる。世界や人生の意味のなさに、真正面からドーンと向かい合うべきなのだ。

さて、何の意味も価値もない、自分という存在もない、言うなれば「何もする必要がない」状態なのだが、そこで「個性を爆裂させて生きなければ仕方がない」なんていうヒラメキが発生してしまった。ちなみに「爆裂」という単語は普通「炸裂」になると思うが、ひらめいた時の文章が「爆裂」だったのでそのまま言っている。

「この世にはなんの意味も価値もないのに、私はいないのに、なぜ個性を爆裂させなければならないのか?」当然、自分の中でこんな疑問が浮かんでくる。答えのひとつは、その方が楽しく、生きている心地がするからだ。快いからだ。充実感、歓び。確かに、そうだろう。ただ、絶対的ではないと感じる。「楽しくなければならない」本当にそうだろうか?

このヒラメキは、ただの気まぐれな思いつきで、真実ではないのだろうか。否、きっと「諸行無常」「諸法無我」と「個性爆裂」の間には、繋がりがあるに違いない。これは完全に勘だが、何か絶対的なものが、見つけられるのを待っている、そんな気がする。

(個性という)影響を自然に外に流していく

しばらく考えてみた。思うに、「私」と同じように「個性」もまた「影響の集合体」である。遺伝や環境、経験によって変化していくものだ。固定された魂的なものではない。であるならば、その「影響」を外に放出していくことが「自然」なのではなかろうか。全てが全てに影響を与え合う、それが諸法無我だ。循環、風通し。他に影響を与え、他から影響を与えられ、互いに変化していく、それは非常に自然なことで、まさに諸行無常だ。

「爆裂させる」とは「表現する」「伝える」ということだ。自分の正しいと感じることを、世界に表明していく。影響を与える。私が何かの考えを持っていても、こうしてブログなどに書かなければ表現にはならない。表現するのはいいとして、難しいのは伝える方だ。このようにブログに書いても、このブログはSEO対策をしていないから、全然読まれないし、ごく一部の人々に読んでもらえたとしても、おそらく今回の記事などは(というかこのブログの思考記事全般は)共感されない≒伝わらない。理解されない。

無理やり「共感されよう」「理解されよう」とするなら、主張が歪む。「無意味だからこそ、自分で意味を見出そう」「何でもありの世界だから、楽しいことをしていこう」などと言えば、多少は共感されるのかもしれない。しかし、それでは(ますます)意味がない。思ってもいないこと…それどころか反対する意見を書き、共感されても仕方がない。共感されていないのと同じ、いやそれよりはるかに悪質である。

共感されずとも、理解されずとも、自分という「吹き溜まり」から、自然に風を流していく。表現、表明していく。それは「闘い」と形容されるかもしれないが、わざわざ外部と闘う必要はない。自然でいる、つまり自分に正直でいることが大事だ。自分を押し殺すこと、自分に嘘をつくことは、不自然なのである。しかし自分に正直でいることは、なかなか難しい。妥協心が邪魔をしてくる。だから「己との闘い」にはなるだろう。すぐに理解されなくとも、「なんだこの考えは?」という「変化の種」を撒いておく。これが、あるべき姿なのではないか。私の場合は、きっと自己主張が足りなかったのだ。