鬱病FtXの起死回生録

概要

  • FtX(Xジェンダー)
  • アダルトチルドレン
  • 鬱病
  • 高校中退

このあたりの要素を持つ(持っていた)ryoma169が、24歳で就職、28歳で結婚し、人生の展望を前向きに考えられるようになってきたため、一連の経緯を書き残します。

苦しい状態の人が参考にすることも想定した記事なので、ドラマチックな書き方は避けて淡々と、自分を凄そうに魅せようと盛ることはせず書くよう努めます。

※就職した段階で「就職するまでの流れ」という記事を書こうとしていましたが、就職した先で上手くいくかも大事だと考えて保留にしていました。それで、結婚という次の区切りがやって来たため「ここで書かないともう書くタイミングがない」と思い、筆を執った次第です。

大まかな流れ

16〜19歳 鬱時代

  • 全日制高校に入学するが、高1の夏に鬱病になる。
  • 何度か留年し、復学しようとするが、通い続けることは難しく中退する。
  • 通信制高校に再入学する。

20〜22歳 社会復帰時代

  • 好きなバンドを見つけて、CDやグッズを買うためにコンビニでアルバイトを始める。
  • 好きなバンドを追いかけることで行動力が養われ、一人旅をするようになる。
  • 通信制高校を卒業する。

23〜24歳 専門学校時代

  • デザインの専門学校に進学する。
  • 高校以前とは精神的にかなり変化しており、楽しい学校生活を過ごす。
  • 昔から哲学していた流れで仏教に興味を持ち、瞑想をしていたら自我が弱まった。

25〜27歳 新社会人時代

  • 一般企業のグラフィック/Webデザイナーとして新卒就職する。
  • 悪い意味で強烈な同期がおり、一緒に働き続けるのに耐えられず、休職を経て退職。
  • 退職後、ゆっくり転職活動をして現職のデザイン会社に就職する。
  • マッチングアプリを使って婚活を行い、現在の配偶者と付き合う。

28歳〜 結婚・人生設計模索時代

  • 会社でさまざまな業務を任され、社会人基礎力が身に付く。
  • 配偶者と結婚する。

詳細な経緯

16〜19歳 鬱時代

県内上位の進学校に行ったが、高1の夏休み頃から具合が悪くなり、不登校になる。心療内科に行ったところ、鬱病の診断が出た。

はっきりとした直接的な原因はなかったが、外部要因としては

  • 授業の難度が上がった
  • 美術部と漫研を兼部しながら文化祭の実行委員をやっていた

内部要因(継続的な原因)としては

  • アダルトチルドレン現象(以下AC)
  • あまり社交的でなく、学校で楽しめない性格
  • 性別違和(Xジェンダー)による慢性的ストレス

このあたりがすぐに思い当たる。

心療内科で投薬とカウンセリングを受けながら、基本的には夕方に起床して朝方に眠る、ニートのような生活をしていた。その後、復学を目指して保健室通学をしたり、留年して年下の生徒としばらく過ごしたりするが、抑鬱症状や希死念慮はなかなか治らなかった。結局、完全に復帰することは難しく、退学する。

療養生活の中で、自分の状況についての考えや哲学的思索が進み、XジェンダーとACについて、ほぼ間違いないと確信する。どうすれば生きやすくなるか、ACを克服できるかを考え、インターネットや書籍でめぼしい記述を見つけては色々実行してみていた。

退学後、4年制の通信制高校に再入学する。精神的にも体力的にも負担が軽減されたためか、徐々に回復していき、リハビリとして高認(高等学校卒業程度認定試験)や運転免許を取る。

投薬治療は一旦終えたものの、将来のことを見通せず、希望は感じられなかった。予備校に勢いで入会して即キャンセルしたり、気持ちだけアルバイトに応募したりもしたが、自分のやりたいこととか夢といったものは(元々少なかったが)まったく思い付かない状態だった。

20〜22歳 社会復帰時代

20歳になる直前に、あるヘヴィメタルバンドのアルバムを聴いて衝撃を受け、「このバンドについて行かなければ!」と感じる。CDやTシャツを買ったり、ライブに行ったりしたくなったため、アルバイトを始める。

それまでの昼夜逆転生活を直すのと、対人恐怖の荒療治のため、あえてコンビニの早朝バイトを選ぶ。今考えると、結局私は接客には向いていなかったし、クロノタイプ(体内時計の型・私は明らかな夜型)的にも厳しいので、かなりリスクが高い行動だったと思う。とはいえ、目的であった昼夜逆転生活解消と対人恐怖治療は果たせたし、先輩やパートのおばさんにも助けられ、何だかんだで2年ほど勤務した(閉店して退職した)。

Twitterでバンドの似顔絵イラストをアップしたり、曲の感想を書いたりしていたら、ヘヴィメタル好きな人々と繋がりができる。一部の人とは、メールをしたり文通したり実際に会ったりと、かなり仲良くさせてもらった。

バンドの名古屋公演を見るため、夜行バスで一人旅をしたことをきっかけに、旅行が趣味になる。北日本を一周する2週間弱の旅に出たり、ドイツにライブを見に行ったりしたことで、行動力が格段に上がり自信もついた。

高認を取っていれば、高校を卒業していなくても専門学校や大学には入れるのだが、もし進学先でまた退学した場合に最終学歴が中卒になってしまうリスクがあったため、高認は取ったものの4年かけて通信制高校を卒業した。

23〜24歳 専門学校時代

通信制高校を卒業後、東京のデザイン専門学校(2年制)に進学する。2年制を選んだのは、年齢的にも精神的にも早く就職して実家を離れ、一人で暮らしかったからだ。鬱病はすっかり完治していたが、毎日どこかに通うのは6年ぶりだったため、無事に就職先を見つけて卒業できるか心配だった。

周りのクラスメイトは概ね4歳年下だったが、特に年齢差を気にせずに接してくれた。また、2歳年上の社会人経験者と良い友人関係になり、想定よりも苦痛を感じることなく通学を続けることができた。授業の90%が美術、残りの10%は総合・学活という感じで、単純に得意科目だらけで挫折せずに済んだことも大きかった。

また、哲学的思考の延長で仏教に興味を持った。好奇心でヴィパッサナー瞑想を始めたら、なかなか面白く新しい感覚を体験できた。これによってXジェンダーやACなどの慢性的問題が間接的に和らぎ、高校以前とは比較にならないほど堂々と穏やかに過ごせるようになった。

入学当初は、コンシューマーゲームの会社に入ってコンセプトアートやキャラクターデザインをしたいと思っていた。しかし、授業を受けたり思索を進めるにつれ、ゲームや広告といった商業色の強い仕事よりも、苦しい状況にある人を直接的に援助するような会社に行きたいと考えるようになった。

4歳年上で、一度高校を中退していることもあり、入学してすぐに就職課を見に行った。早めに動いて準備していたのが功を奏し、無事2年生の夏に内定が出た。

卒業制作展では実行委員長を務めた。小学校からずっと「リーダーをやりたい感覚」はあったが、「うまくいかないだろう」という感覚がそれを相殺し、最終的に言語化して「リーダーをやりたい」と思ったことはなかった。しかし、この頃には「うまくいかない」という感覚がなくなっていたため、素直に「リーダーをやりたい」と思い、ようやく実行できた。

25〜27歳 新社会人時代

専門学校卒業後、千葉の一般企業にグラフィック/Webデザイナーとして就職する。実家から離れていたため、一人暮らしを始めた。家族から離れることで、精神的に非常に楽になり、XジェンダーやACが(無くなったわけではないのに)ほとんど気にならなくなった。

一人暮らしに問題はなく、仕事も内容自体はよかったが、厄介な同期と共に働き続けることに耐えられなくなり、会社を休み始めた。病院に行くと再度鬱病と診断され、数ヶ月の休職後、退職することになった。

退職後、一旦実家に戻り、療養をしながら時間をかけて転職活動を始める。退職したおかげでバンドの解散ライブに行けたという塞翁が馬が起こりつつ、現在勤務しているデザイン会社に転職が決まり、神奈川県で再度一人暮らしを始める。

新しい会社は、最初の会社と比べて業務量も頭の労働量も桁違いに多く、いわゆる社会人基礎力を叩き込まれた。デザイナーとしても、デザイン力はもちろんだがデータの整合性や取材の流れなども身に付き、後輩もできたことでディレクションやマネジメントまで一から学ぶことになった。

仕事に慣れてきて余裕が出てきたので、マッチングアプリを使って婚活を始めた。一人暮らしで寂しいと感じたことはなく、昔から単独行動ばかりで、孤独自体はなんともなかった。しかし、ふと「今はまだいいが、40代、50代となったら、自分のためだけに生きるのは退屈になるに違いない」と感じた。そこで、試しに結婚してみたらどうか、まずはアプリを入れてみて、つまらなかったら止めればいいしと思ったのだった。

アプリは私に合っていたらしく、始めて2週間ほどで現在の夫と知り合い、その1ヶ月後には付き合うことになった。夫曰く、私のプロフィール文は他の女性と比べて異様に長く、とっつきにくい印象があったようなので、軽い気持ちでマッチングされることが少なく、効率よく活動できたのだと思う。

28歳〜 結婚・人生設計模索時代

仕事では順調に場数を重ね、上司からいろいろと一人で任されることが増えてきた。成長を感じると同時に、今の会社に居続けた場合の未来もなんとなく想像がつくようになってきた。すぐ動くことはないにせよ、次のステージはどういうものにするか、検討し始める段階に入っていると思う。

また、一年の交際を経て、現在の夫と同居・入籍した。結婚は、想像よりも良いものだった。非常に相性が良い人と出会えたので、同居しても変わらず楽だというだけの話でもあるが。

一人で過ごしていたら「ひまな時間」は「そういえば何もなくて幸せだな」と思うくらいだが、今は暇な時には夫を眺めていれば「明らかに実感する幸福な時間」になるのだからお手軽なものだ。精神的なメリットも大きいが、物質的にも一人暮らしよりかなりコストパフォーマンスが高い。家賃や家具・家電は、単純に考えても倍の価格のものを使えるのだから。

夫はITエンジニアとして成し遂げたいことがあるようなので、特に何もしたいことがない私にとっては、壮大な暇潰しを提供してくれる、とても助かる存在だ。前述の「次のステージはどういうものにするか」は、この企ての事も考慮に入れて選ぶ必要がある、ということだ。

社会復帰できた要因の分析

たまたま

身も蓋もないが、たまたま感性に突き刺さるバンドに出会ったことが転機となったので、そうとしか言いようがない。今の夫と意気投合できたのも、たまたま私と知り合う直前に夫が仏教にハマったからだし、たまたま最初のバイト先で協働するスタッフに恵まれて人間恐怖を悪化させずに済み、極論を言えばたまたま北日本旅行で轢かれなかったりドイツ旅行で殺されなかったりしたから今の私があるのである。

強いていうなら、このような「たまたま」「ご縁」「ラッキー」が目の前に出てきた時に反応できる素養、すなわち広範な知識と好奇心というのは、持っていて損はないと思われる。

元々は心配性的な性格だったため、危機感を持つのが比較的早かった

危機感、または希望ともいえるが、「今の状態から変わる方向性」を心に持つことが大事だと思う。方向性さえ定まれば、その後に起こる選択肢で方向性に近い方を選択し続けるため、特段の努力をしなくても少しづつ、その方向に近付ける。

とはいえ少しずつしか近づけないので、早い段階でおおざっぱな予定だけ決めるのが大切である。あまり厳密な予定を立てると、突然目の前にチャンスがやって来ても軽い気持ちで飛びつけなくなったりして機動力が落ちるので「おおざっぱ」が肝だ。雑に考えて、あとはやりながら考える、というのが少なくとも私には合っていたようだ。

幼少から絵を描いていて、デザインの素養が身に付いていたため、専門学校で挫折せずに過ごせた

手に職がついているのは防御系スキルだと感じる。自分の心と職が守られるので、できれば何か1つあると非常に便利。通っていた専門学校では一番成績のよい生徒でいられたが、これが四年制大学で経済学部とかだったら、それほどの成績は出せなかったに違いない。何か特技を見つけて、それが使える場所にいることで、特別の努力をしなくてもそこそこ活躍できて、自分が安心するだけでなく周りの人間も助かるのだ。

専門学校で「気が合うが、価値観は異なる友人」と出会い、人生設計において刺激を受けられた

彼女は「結婚して子供が欲しい」という私とは真逆の人種だったが、その空気感に晒され続けたことで「試しに結婚してみてもいいんじゃないか」という感覚になれた(実子は今でも産みたくないと思うが…里親になるのは有り得る選択だ)。

また、彼女の話を長々と聞いて行動を共にすることで、自分とは全然異なる考え方の人間がいるが、だからといって私と気が合わないわけではなく、見習える部分も多くあることが実感として分かった。そして、自分を偽ることなく過ごしていても、それがどうも相性が良くて、お互いが自然にやることがなんとなく嬉しい、という状況が現実にあることも知れた。

苦しんでいる人へ

ソースは私の感覚ですが、人間の脳が物理的に完成するのは20歳を過ぎた頃です。その後、社会に出て様々な経験をすることで、25歳を過ぎてからようやく自分なりの考えを持てるようになります。

また、根拠のある自信を元に堂々と振る舞えるようになるには、多角的な経験(勉強や趣味、恋愛等も含みます)が必要です。それらをするにはある程度時間が必要ですし、人によっては「その時を待つ」しかありません。そのため、今高校生とか大学生で人生に悩んでいる人は、焦らず心配しすぎず、スキル習得に励んでください。「芸は身を助く」は本当です。

実際に自分が歳をとるまでは分からないので不安だとは思いますが、歳を取ったら点と点が繋がって分かる事が色々あります。生きること・生活すること自体にも慣れてきて、何をするにも負荷が減ります(体力的には負担が増えますが)。そして歳を取ると、鈍感で冷徹な「醜い大人」に勝手になりますし、なることを求められもします。それなりの経験を積んでいれば視野も広くなりますので、若い時より随分生きるのは楽になります。

ということで、今一生懸命考えて分からない事があっても、あまり気に病まないでください。人生はなるようにしかなりませんし、なるようになります。