希望の炎を絶やすな

ふと、こんなことを考えた

「もし、Children Of Bodomがいなくなったら……私は耐えられるのだろうか?」

Children Of Bodom(以下、COB)とは、私が世界で最も敬愛しているメタルバンドである

彼らに人生を救われてから今まで3年半ほど、苦しみや迷いが起きたときはCOBの音楽が支えになった

実際に、好きだった人に振られた時、COBの音楽があったから持ちこたえられたのだと思っている

これからもずっと彼らを追い続けるだろう

ただ……今のところCOBがいなくなる兆しはないが、世の中に「絶対」ということはないのだ

「その時」のことを想像すると、いや本当に恐ろしい

無性に恐ろしい

生きる意義の何割かが失われる気持ちだ

大きな支えであるCOB自体がなくなるのだから、私はいったい何に支えを求めればいいのだろう

別のバンド?

その時までに恋人を作る?

仕事?

…いや、違う

「代わり」を探すのに終始しても仕方ない

その「代わり」にだって保証は何も無いのだ

これは、考え方の転換が必要だ

それにはまず、根っこから見ることだ

私はいったい「何が」怖いのだろう?

…思うに、「もう、ずーっと〇〇できない」という状態になることが怖いのだと思う

可能性がなくなるのが怖い

言い換えると、希望を絶たれるのが怖いのだ

ということは、希望をいっぺんに絶やさなければいいのである。つまりリスクの分散だ

希望がなくなるのは恐ろしいぞ

希望が消えていくと、生きる意欲もスゥッと消えていく

より具体的には、自分の未来が全く描けず、精神が停滞する

与えられた命令のみを実行する機械のようになり、このおかしさを直視することもできない

ただ、「もうだめ」なことはよく分かる

そんな中でも、身体の本能は生きたがる

すると、「命という監獄」「身体という牢獄」に入れられたような気分になる

これは経験したから知っている、なるべくもう味わいたくはない

(そんなときに私は、新しい・強い希望に出逢ったというわけだ)

子はいつか親離れするという

それは成長の証であり、本来喜ばしいことだ

COBにはずっと支え続けてもらった、だからこそ、自分はCOBがいなくなっても生きていかねばならない

彼らに依存せずに、己の人生を歩めるようになる。これは礼儀であると同時に、(とんでもなく一方的だが)恩返しだ

希望があれば、また歩き出すことができる

耳にタコのできそうな文言だが、実際にそうだと思う

希望の炎を絶やさないよう努めること

つまり、不必要に風や水を当てないとか

湿った土地は避けるとか

いろいろな所から薪を貰うとか

「何か大きな支え」を探すのではなく、今から少しずつ、このようなリスク管理・環境整備をしておくのが賢いと思った

脆さを分かっているなら尚更だ

リスクを分散することを考えれば、依存の問題が分かるな

お互いを守るために距離を取ることも必要なんだナ

何よりも自分のために