分ける分けるのワケあるの?

自分の生まれた身体が女である。これはもう、仕方ないよ。たまたまそういう「形」をしてるだけで、大した意味はないんだと思えばよい。

しかし、そう「気にしない」ではいさせてくれないのが、この社会だというお話です。

ランドセル、制服、席順、体育やレクのグループ、、、分ける意味あるのかな。

合唱のパートとか、体育競技とか、そういうのを部門で分けるのはわかる。しかし、今挙げたようなグループ分け…単なる男女分けに、何か意味があるんだろうか。

自分の体の特徴で「女性」と分類されるのは別にいい(嫌だけど)。医療とか、体力面を考える時は必要な情報だからだ。ただ、女性である、という情報を使わなくてもいい所でもいちいち男/女ってやられるのに毎回「うー」と思う。性別、ジェンダーに関する違和感を持たない人は、まず無意識であって、分けられることに嫌だとも嬉しいとも何とも思わない。それは悪いことではないが、その分けるって行為があんまり頻繁に無意識にされすぎて、私はうんざりしてるのだ。

学校での席は、「異性だからと敬遠しないで仲良くなりなさい」と男女が隣り合わせになる。しかしこれ、こういう風にわざわざ分けるから余計に「男/女なんだ」と敬遠するんじゃねーかな。幼稚園の制服やら名札から不必要な男女分けをしなければ、こんなこと言わなくていいと思うんだ。男女平等の話とは違う。根源は女性差別にあるのかもしれないが、私が言いたいのはただ「何でそこまでイチイチ分けなきゃいかんのよ」だ。

洋服のメンズ/レディースや、おもちゃや文具の男児/女児向け、というのは、性別によって好みが偏りがちなのは実際にあるだろうし、見方を変えれば、欲しいものを探しやすくなるからそれはいい。個人の好みの話である。

しかしランドセルや制服や男女分かれて集まらせること、これが分からない。好き嫌いではなく、決められることだ。仮に、ランドセルが皆茶色だとして、または全く好きな色を選んでよいとして、何か不都合があるか?「あそこの学校の生徒」というのは分かった方がいいこともあるから制服自体は理解できても、「あそこの学校の男子/女子生徒」まで服に出す必要があるか?修学旅行の宿泊部屋を分けるのはまあまあ理解するが、着替えもしない座学でわざわざ分けられて「女子はまとまりがある」などとイチイチ言われる意味がわからない。

全員同じに統一しろとは言ってない。むしろ逆で、赤が好きな男子は赤いランドセルを背負い、パンツスタイルの好きな女子はスカート着なくてもいいだろう?なぜ、種類を増やしながら選択させない?ということだ。

意味があるかじゃなくて、慣習だとか文化だとか言われるだろう。しかし私は、このひたすら無意味に男女で分ける分けるの社会…特に、学校教育には辟易する。分けられる度にがっかりしてきた、今もそうだ。私がこういう状態だから、珍しくもこう感じていることなのだろうか?