上辺のやつらとテリトリー

最近自分は人間関係であまり悩まなくなったなあ、と思索した結果できた文章です。

あまり悩んでいない。それは、皆ととても仲が良い…ということではない。実際、そうとは思えない。逆だ。距離が取れていて心地よいということだ。皆と、遠すぎず密着もしない距離を保てている…かな。たぶん。その上で話しかければ応えてくれるし、話しかけられると嬉しい。

まあこれは、自分が孤独好きなタイプだから、こんな思考になってるのかもしれないが。ケジメとテリトリーがちゃんと存在していると、何かと過ごしやすい。自分用の心の避難所があるということだ。

例えば、考え方が違ったら、議論するのではなく「お互いの考え方が分かった」ということで、話を変える(以後その話はなるべくしない)。「この話、なんか嫌だな」と思ったら、ふっと席を外す。それについて周りが気に病む必要もない。自分が相手を変えることはできない、という前提をしっかり持つことだ。

冷たい乾いた関係だろうか?自分はそうは思わない。というか、熱くて湿った関係が良くて冷たい乾いたのはダメとは思わない。

自分にとって「必要以上に距離を詰めないこと」は、マナーの一種だ。そして、自分にも守られるべきテリトリーがある。そこを何故か越えて入ってこれちゃう奴が、ごく稀にいるけど、稀でいい(そういうのが親友になるのかもしれない)。縄張りは効かせなければ意味がない。そこに入ってこれない、上辺のやつらがいる状態は、縄張りがきちんと機能してるということだから、むしろ好ましい。

今「あなたに親友はいますか?」と聞かれたら、「わからない」と答える。いる気もするが、いないかもしれない。でもそれは全く、悪いとか寂しいことじゃあない。そりゃ、いたら良い感じだろうなとは思うが、いないならそれでもよい。探したりして解決すべき問題(problem)ではない。

人間関係での悩みといえば、青春。悩むのは、基本的には良いことだ。青春の本質は、悩みだと思う。苦しいことだ。キラキラとしたああいうイメージは、隣の芝であって、虚像だ。もっと抉れば、何かを売るためのプロモだ。そこに見えるキラキラが、単なるエフェクトではなく、汗と涙でなければ青春にはならないんだ。