自分の夢に気付くのは難しい

「小さい夢に起こるジレンマ」について

社会には、「現実vs夢」という構図がボンヤリとある。すなわち「サラリーマンとしてまあまあの生活をする vs 自分のしたいことで生活する」という人生選択だ。

たいてい、前者が難易度が低くて安定感があり、後者は難易度が高く不安定なこととして語られる。だから後者は「夢」と呼ばれるのであり、成功した時はリスペクトの対象となるのだろう。

…でも、本当に、いつも必ず「夢を叶えるのは難しい」のだろうか?戦わなければ手に入らないものだけが夢なのか?夢は、難しくないといけないのだろうか?

「夢は、自分がしたいことだ。」

これは合ってるのだが、

「夢を叶えるのは、難しい。」

これを前提にしてしまうと、

「叶えるのが簡単なことは、いくら憧れていても、夢とは言えない。」

…という誤りに陥ってしまうのである。

「したいかどうか」と「難しいかどうか」は、改めて考えれば全く関係のないことだ。

例えば、何かに惹かれて「ずっとレジを打っていたい」という人がいたとする。レジ打ちになるのはそこまで難しくない。しかし、それがこの人の夢だというなら、夢なのである。「宇宙飛行士になりたい」と同じだ。「レジ打ちになりたい」、なんの間違いもない。

「レジ打ちには誰でもなれる。もっと高く夢を持て。お前は諦めているんだろう」と言われても、困るのだ。

ただし、これは仕方のない反応だ。我々は幼稚園からずっと、「夢を持とう」「夢は頑張れば叶う(≒頑張らないと達成できないのが夢)」と教えられてきているのだから。

ネットや書籍を見渡しても、大概「夢」は崇高な存在として語られている。「僕の夢はコンビニのレジの人だったので、バイト先で夢が叶ってハッピーです」とか、「地元企業の営業マンに憧れていたので、天職が近くにあってハッピーです」なんてのは聞いたことがない。わざわざ言うほどのスケールではないからだ。

スケールの小さい夢は、表に出てこないのである。出てこなければ、見えない。凄いことばかり見えるもんだから、大きな夢がある人が正常な多数派のように見えてくる。でかい夢に向かってガンバるのが正しくて、しょーもない夢は楽だから悪。小さい夢を持つ人々は、諦めて夢を格下げしたに違いない…そんな気がしてくる。

でも、そりゃ「気がする」だけなのだ。どんなにしょーもない夢でも、それがホントにしたいのなら、そうなんだから仕方ない。

自分の求めていること…例えば、生活水準について、仕事の種類について、パートナー選択について、なども同じことが言える。

自分それぞれの欲求は、必ずしも「社会的に良い感じ(≒多数派)」と一致しない。

例えば私は、身の丈に合った生活水準がいいなと思っている。それは年収に合わせた暮らしという意味ではなく、「一匹の人間の生活」という水準だ。つまり、感じの良い言い方をすれば、質素がいいなと思っている。

でも、そういう感覚でありながら、「きっと金持ちの豪勢な生活は楽しいはずだ」と、ちょっと思ってしまう。自分の満足は「本当の満足」じゃないような、諦めた結果のような、そんな気がしてくるのだ。みんなと同じかプラスアルファの欲求でないと、間違っているような、諦めているかのような、そんな気になってしまうのだ。

だから、自分が本心から求めていることに気付くのは、難しい。社会の中で生きてる以上、そこからの影響は受けてしまう。必要となるのは、周りや社会からの空気と自分の感覚を見分ける能力だ。これが至難の業で、そこにはハッキリした線引きも無いのかもしれない。

…ひとまず目安としては、昔から自分が無意識にしていたことにヒントがあると思う。それは苦なく何年も続けていることだから、少なくとも相性というか心地は悪くないのだ。