デザインとアートと

過去記事「絵への姿勢」で書いた通り、自分は絵を描くことに楽しみを見いだせなくなっていた。

そこには、周りの評価を気にする疲れや、他の作品に触れての劣等感や、仕事にすることへの気負いなどがあったのだろう。ただ、最近別のベクトルで「絵を描く楽しみ」を見出し始めている(かも?)ので、そのことについて書こうと思う。

最近、自分は「画力」というものについて考えを走らせていた。

画力とは、一体何なのだろうか。「上手い」ことと「上手く見せるのが上手い」ことは、違うのだろうか。何故、人間は絵を見て「うまい、へた」と判断することができるのだろう。……という具合だ。

デッサンの授業で、先生に「コントラストをもっと上げてみなさい」とアドバイスを貰い、試しに勇気を出してコントラストを上げてみた。また、友人が情報量のあるイラストを描いていたので、それを参考に画面内の物量を増やしてみた。

すると、どちらも明らかに画面が良くなったのである。

正直これらの現象には、喜びよりも戸惑いの方が大きかった。まるで、たった一枚で「絵がうまくなった」ようである。こんなことが起こる画力というのは、一体何なのだろうか。

おそらく、「画力」の中にデッサン力、演出力、構築力、バランス感覚、などが色々詰まっているのだと思う。さっき挙げた出来事で、おそらく私の画力中の演出力あたりが強化されたのだろう。

強化されたようで嬉しいが、そもそもこのデッサン力とか演出力、つまり「うまい・へた」の基準は、誰が決めたのだろうか。…そりゃあ、「みんな」が決めたのだ。長い歴史の中で、「なんかイイもの」を積み上げ透き通らせて来たのだ。みんな とは、すなわちデザイナーのお客さんだ。

アートとデザインは全く違う。互いに干渉することはあるが、それぞれの考え方は逆だ。デザインはお客さんの見やすさや楽しさのためにする仕事であり、アートは自分のための表現だ。

「絵を描く」の中には、アートの要素もあるがデザインの要素も多い。特に、人に見せて評価を”貰おう”としたら、デザインを無視しては通れない。みんな の積み上げてきた美的感覚にもある程度合わせなければ、美しい物として見てもらえない。

自分は、デザインとアートに板挟みになっているから苦しいのだ。ベクトルの違うデザインとアートを同時に達成させようとしているから、挫けているのだ。

自然とその両方の要素を達成できる感性の持ち主もいる。でも少なくとも現代において、自分はそうではない。例えば、自己表現のためのイラストにおいて、自分は見栄えのためにコントラストを上げたり物量を増やしたり遠近感をつけたりするのに抵抗がある。平面的でスッキリとした、浮世絵のような画面が好きなのだ。(いつか浮世絵風とかすっきりしたのがムーブメントになったら、この感性はデザイン需要とマッチしていることになる)

これは理由のないそれぞれの感性なので変えられないし、どっちが優れてるという話でもない。そして、作品への評価は時代の流れによって変わりゆく。

このような訳もあって、自分の場合はデザインとアートを分けて考える方が気持ちが楽である。「自分が今描いているのは他人に見せるものだから、アートよりデザインを優先させる」など。デザインをして、つまり「どうすれば相手が喜ぶか?」考えて、描く。それはアートとは別ベクトルの、ゲーム攻略的な楽しさがあるように思う。

自分の手から生まれた作品は、すべて自己表現だという感覚があったのだが、その考え方だとデザインをするのが苦痛になる。デザインはデザイン、アートはアート。そう分けて処理していく方が、自分にとってはやりやすい。