性別違和状態も自然ではないか

体は女で心は男(に近い)。この状態を、今までは「体が心に合っていない」と捉えていた。しかし、実は、この「体が女で心が男」状態こそが、自然な「私」の性別なんじゃないか…?捻れてなどいないんじゃないか?数が少ないだけで、男女という線引きを無理矢理当てはめているだけで、ほんとはこれも「男」「女」と同じ種類の状態なんじゃないか…?

性別:「体が女で心が男」長いけど、今はほかに表し方がないかな。組み合わせのことで、正確に言えば「男」は「体が男で心が男」の略だし、「女」は「体が女で心が女」の略になるのだ。

自分だけの特別な性別じゃなくて、「不定」とか「FTX」「私は私」とかでもなくて、今は名前がないだけで普通なんじゃないか…。(といっても、やはり違和感はある。「なんでこうなったかなあ」という感じだ。あるはずのものがないし、ないはずのものがある。どうも気持ち悪い感じなのだ。)

(男が女を抱く、という構図がある。私はどっちの立場でいるのがより「正しい」のか、と縛られていた。男の体でないので物理的に不可能なことがあるし、といって女の体をしておいて抱かれたらそれこそただの女になってしまう、それは自己の存在に関わる、と思ってた。それは、相手というか“みんな”が「男・女」の択しか持っていない、「男・女」の択をいつでも持っている、と絶望していたからだ。)

この一見捻れていて「性から自由になりたいと思うほど縛られ」がちな状態。これにうまく余裕をもたせて“越える”ことで、性からの解放、アイデンティティの自由を手に入れることができるような…そんなイメージが少しだけ湧いている。ちなみに、トランスジェンダーの「トランス」は「越える」という意味なのだが、今書いていることと同じ意味なのか、少し違うのかはよく分からない。私のこれは「男女・性別のイメージを越えて、“人”になる」。

ところで日本語の一人称がどれもしっくり来ません。私と言ってるけどしっくりこない、僕とか俺もそう。自分、自分はって毎回言うのもヘンだし。自分じゃなくて一人称を使いたいし。