「Xジェンダーらしさ」は置いていこう

いわゆるFTX無性の私ですが、「私はFTXだ!無性なんだ!」とリキむ必要はないことに気づいたので、記事にします。FTXってなぁに?という方は、「セクシャルマイノリティについて説明する」も合わせてどうぞ。

「女神」はどこにいる?

「ボーイッシュ」「中性的」という形容の仕方がある。私はどっちもよく言われる。意味は「ちょっと男の子っぽくて、女性性をあまり感じない」ですね。

で、「女性性をあまり感じない」のだが、間違いなく「身体の機能が女性」ではあるわけだ。「ボーイッシュ」だが、残念なことに「ボーイ」ではないし、「中性的」だが「中性」という身体の定義はないので、なれない。

で、私からかなり欠落しているらしい「女性性」とはどういうことか?という話になるが、「ステレオタイプな女性像」があるのだと思う。具体的にどこがどうならステレオタイプだ、ということではなく、なんとなくの概念の集合体として、イデア的な共通認識として、「女性というイメージ」はあると思う。その「女神像」とどれだけ符合するか、というのが「女性的か・そうでないか」の一つの指標のように思える。

女友達と話していると「ウチらは、可愛い女子じゃないからねwおっさんだからw」というようなノリになる。私から見れば、髪型も化粧も喋り方も整っている「可愛い女子」でも、こういうことを言っている。この時いわれている「可愛い女子」とは、具体的にどんな女性か?と議論をしたことはないにも関わらず、なんとなく「ああ、あれね」という感じで「そうだね」となっている。「ああいう可愛い女子」という概念を、「女神像」を、可愛いリア充な子も、オタクで二次元が好きな子も、私のようなのも、持ってるのである。

さて、そんな「女神さま」は、どこにいるのだろうか?「女性の目指すべき人物像」、「みんなの理想の女性」は、いるのだろうか?

当然、いない。「なんとなくの概念の集合体」だから、無限に完璧である。完璧な人間はいない。人間の魅力には「完璧ではない」が含まれるからだ。もし、ある人物が「私は自他共に認める可愛い女子よ」と出てきたとしたら、もうその「私は可愛いのよ」という自己主張が「非女神的」で「非女性的」なのだ。逆に、そういう「自称女神」が誰も出てこない場合、「女性としての自信がないんだろう」とか、逆に「控えめを装うことで支持を得ようとしている」みたいな感じで絶対にアンチが発生する。そして、時代や国や宗教によって「女神像」は違う。どうあがいても、「このお方こそが」と全員が納得する「女神」は登場しえないのだ。

もし「ボーイッシュな」「中性的な」「男性的な」というカテゴリ名が一切無かったら、事実としての「(身体が)女性」という大きなカテゴリが、「ボーイッシュな」女性たちをゆるやかに包み込むでしょう。その中で、男性的だとか女性的でない、というのは、カテゴリ分けというより個性の話になる。

「自分が女性である」ということに「本当にそうかぁ?」「いやー、さすがに女性ではないと思う」と、根拠なしに≒強力に感じ続けてきたので、「…な女性」という意味を持つこれらの形容に対しては、「そうなんだけど、なんか変」という感じなのだ。

であればむしろ、「これはあくまで身体の性別の分け方で、中身はまた別の話です」という前提が再認識された上で、男女二元論的な分け方をするほうが、かえって精神的自由を得られる可能性がある。現生人類は、身体が男女どちらかで心の性が身体と一致しているのが大多数なので、前述のような前提を敷くのは体感的に難しいのだが。

現状、「女性の場合…男性の場合…」という話の中で、自分をどっちに当てはめればいいのか?分からない。性別欄のマルも、しんどさがある。おそらく向こうは統計として身体の性別を聞いているのだと思う。しかし「あなたは どっちですか?」という全体的な聞き方なので、自己紹介するなら「身体は女だが、性自認は女ではない」と言いたいし、立ち居振る舞いは男性的なので、「私は女性です」と全体的な申告をするのには抵抗感と違和感が出る。真面目な検査の場合、なんだか相手を騙している、嘘をついてるような感じになるし、気軽なアンケートの場合は明らかな外れ値だろうから除外されるという諦めがあるのだ。

しかし「これはあくまで身体の性別の分け方で、中身はまた別の話です」「このアンケートは身体が女性であれば精神性に関係なく全員答えてほしい」という強い前提があれば、「ああ、身体はね」ということで違和感も減ると思う。

「私はFTXなのです!!!」と大声で主張してしまうと、「じゃあXジェンダーらしいんだな」「女性性はかなり少ないんだな」という期待を勝手に背負うことになり、自動的に選択肢が狭くなってしまう。「男性だ」「女性だ」に「FtXだ」とか「MtFだ」とか追加することは、根本的な構造が同じなので苦しみは大して変わらないのではと思うのである。

だったら、「男性」「女性」とおおざっぱに!!区分けする方が、かえって精神的自由を得られる可能性がある。その代わり、その「男性」「女性」という区分には、公衆浴場・公衆便所・病院以外では意味を付加しない。単なる身体構造と、性指向の多寡の話だけであって、服や言葉や髪型にはいっさい影響を与えない…そんなやり方ができれば、「女性なのだから」などといった言葉も意味をなさなくなっていくだろう。

しかしながら、そんな自由な状況になればなるほど「男性らしい男性」「女性らしい女性」の希少価値が上がり、性的アピールの強い者がますます「勝ち組」となっていくだろう。そうなると「男性らしい男性は卑怯だ」とか「女性らしい女性は身体的資本を金銭に換えて再分配すべきだ」などという変な主張も出てくるような気がする。

性的多様性とか、男女格差の是正といった話は、専門家がいろいろ考えて決めていくのではなく、地球全体で庶民の間で少しずつ、だんだん大きなうねりが起きていって、それが政治に波及して社会が変化していく。果たして、ポリティカルコレクトネスはそのうねりを正常なものに近づけるのか、それとも異常な津波に変化させるのか?

私という人間は、性役割があってもなくても100%存在している。その上でスカートをはこうが、ミリタリージャケットを着ようが、タキシードサムくんのぬいぐるみを鞄に付けようが、どれもこれも「私」という100%の数値には干渉しないのだ。100%と書いてある数字の色がどう変わるかという話だ。「女らしさ」を拒否したら存在が60%になる、というような話は拒否したかったのである。