悲しいことがあったって良いじゃないか

悲しいことがあったって良いじゃないか。

「悟り系」では、ことあるごとに「全ての物事には終わりが来る。だから執着するな」と言われる。

確かに、出会った瞬間に別れることは確定している。それはわかる。しかし、別れの悲しみは、人生から排除すべきものなのだろうか?

1年半ほど前、ある男性と付き合っていた。付き合っていたと言っても、たったの数ヶ月だったし、何度かデートをして、手を繋いだだけだ。正直、彼のことがけっこう好きだった。愛するまでは行かなかったものの、彼とは趣味が合い、年上の余裕が心地よく、容姿も好みで、非常に魅力を感じていたことは事実だ。

しかし、ふられてしまった。正確には、破綻してしまった。方向性が違ったのだ。細かい経緯は恥ずかしいので書かないことにするが、とにかく私は「悲しい別れ」を経験したわけだ。

…さて、先ほど、彼が当時勧めてくれた曲を久しぶりに聴いてみた。ただの思いつきだ。比較的明るい曲。明るい曲だけれど、私にとっては「失恋ソング」である。

(哀しいなあ・・・)

心や脳がジンジンと沁みる。悲しみだ。彼と出会わなければ、付き合わなければ、好きにならなければ、この悲しみはなかった。

でも、「出会わなければよかった」とは思わない。彼と過ごした時間は楽しかった。

そして…この「沁みる悲しさ」は、そんなに不快なものじゃない。懐かしさと、マゾヒズムと、わずかな希望が入り混じった、悲しくも快いテイストである。

確かに、破綻した直後は非常につらかった。しかし、当時もやはり「出会わなければ…」とは思わなかった。

私の愛するメタルバンド・COBが解散を発表した時もそうだ。発表があった時は、ひどく混乱した。ショッキングな出来事だった。しかしながら、やはり「彼らと出会わなければ、この悲しみはなかったのに」とは思わなかった。悲しみよりも、彼らがくれたものが大きすぎるからだ。

別れの悲しみは、人生からなくすべきものなのだろうか。別れの苦しみをなくすために、浅い関係しか作らない方が良いのだろうか。

私は、そうは思わない。むしろ、別れる時に悲しくなったり、混乱したり、追いかけてしまいたくなるような関係こそが、生命線だと思う。愛情や友情のない人生なんて…

「何かを得ても、それは必ず変化していく。すべて虚しい」

と言われるが、だからなんだというのだろう。「虚しいから、やらない」というのは、虚しいか・虚しくないかに意味を与えていることになる。そこにすら意味はないのに。

全ての生命は、形成されたものは、形という牢獄に入っている。なぜか出現しており、成り立ちや生存本能から逃れられない(しかし、成り立ちや生存本能にすら意味はない)。そしていずれ崩れゆく…

「苦しみを減らすべきだ」と思ってきた。しかし「苦しみを減らすために、喜びを減らす」→「喜びが減るという苦しみ」という構造になっていることに気付いた。これは、「クリエイティビティと幸福は両立できるか」にも通ずることだ。

究極の安らぎに帰するためには、喜びも完全に捨てなければならないのだろうか。そうではないと思う。「喜びも捨て去らなければならない」というこだわり自体が、安らぎとは程遠いものだからだ。同様に、「苦しみを減らさなけらばならない」という執着を持って生きるのも、安らぎとは言い難い。「安らいでいたい」という欲求を持つ時点で、安らいではいないのだ。

…そうなってくると、苦しみも喜びも、無理に減らす必要はないのではないか。意図すること、方向を向くこと自体が重荷なのではあるまいか。「苦しみを減らそう」などと力まず、ただ「今」を受け入れれば良いのではないか。ありのままを観察すれば良いのではなかろうか。

「苦しみを減らそう」という意図すら手放したら、自由になれる気がする。目の前のことを一生懸命やったり、ボヘーッとしていれば、それで良いような感じがする。

「究極の安らぎ」とか「ニルヴァーナ・涅槃」「悟り」とかいった状態に“なれば”、そこがゴールで、幸福に“なれる”…というようなイメージがあるが、実は違うのかもしれない。幸福にマイホームやマイカー、結婚が必須ではないのと同じように、幸福には悟りも必要ではないのかもしれない。安らぎに条件はいらないのかもしれない。

であれば、今ここですぐに、安らげるはずだ。今ここですぐに、ということは、いつでもどこでも、だ。いつでもどこでも、真理は常に「(仮の)私」と一体だ。真理の中で「私」が出現しているのだ。