大いなる流れに身を委ねて 欲望について

「欲をなくす」とはよく言いますが、欲はなくすものではない、ということに気づいたので書き残します。

先日、「昔に比べたら、欲が少なくなったなあ…」などと考えていたのですが、そこでふと「でも、少なくなったとは言っても、まだ欲があるな」「自分も、普通に欲望が発生して、その達成のために動いているじゃないか!」と気付きました。

当たり前のようですが、この「自分も“ふつうに”欲が発生していて、それを達成するために無意識のうちに動いている」というのは、なかなか大きな発見でした。文章では伝えづらいですが、「なぁんだ!」と腹落ちしたのです。

もっと具体的に書きますと、私は「名声や権力には興味がないし、自己を肯定する必要もないし、何もする必要はない。しかし、それでも“何かをやらなければ”と感じている。退屈感がある。これは一体、なんなのだろう?私は、何かをすべきなのか?」と思っていました。

その後しばらくして、ふと「ああ、S君に会いたいな。会ったら、どこに行って、どんな話をしようかな…」などと思ったのです(S君は元クラスメイトで、面白い人間です)。「すべき」といった義務感ではなく、単純に「そうしたい」という気持ち、言い換えると欲望ですが、自然と、無意識のうちに「達成しよう」と感じられるものでした。

そこで「そうか!私にも欲望がある。そしてそれは、自然に発生して、自然に達成すれば良いものだ。」と気づいたのです。

欲もまた外部から流れてくるもの

「諸行無常、諸法無我」ということで、「私」は「私以外のもの」の影響を受け続け、私以外のものによってアウトラインが形成されており、「私」を構成する原子は常に揺れ動いている…ということで、「私」はいません。「私と認識されているもの」が、あるとも言えるが無いとも言える、そんな状態です。

「私」の欲望はどこから湧いてくるのかというと、外部からの刺激が私という関数に引っかかって、出力され、発生するわけです。私という関数とは、今まで育ってきた環境による思考方法とか、元々生まれ持った性格とか、現状の社会的状況とか、そんなものが絡み合ってできます。

私の中に発生する欲望ですが、その出処は外部にあるわけです。外部から勝手に流れ込んできて、勝手に関数によって出力されるのだから、なくすことはできません。食欲や睡眠欲と同じで、生物的にそのようになっているのだから仕方がないのです。

「欲をどうこうする」という発想の時点で「私の欲」になっている

「欲をなくそう」とか「欲を少なくしよう」と考えるのは別にいいですが、そのように「欲を自分の力でどうこうしよう」という発想の根底には「私がいる」「私の欲だ」という感覚があります。これが悪いと言っているのではなく、事実は「私はいない」なのだから、ズレてるねということです。

欲望にも自然に対応していく

私という「吹きだまり」に、どんどん外部から情報や感情が流れ込んでは出ていく、その中に欲望も含まれるということで、欲が発生したら自然と従う、言い換えると「流していけば」良いのだと思います。

欲望が発生した時「自分はなんて欲深い人間なんだ。我慢しなければ」と対応するのは、「不自然」なのです。逆に、「絶対に達成しなければ、俺は終わりだ」などと、ただの欲を過大評価するのも不自然です。

宇宙意思というか、私が含まれる大きな流れに逆らわずに、自然に対応していけばいいのでしょう。

この感覚はなかなか文章化が難しいです。あまり「欲を減らそう」などとは考えずに、人間らしく過ごしてみようと思います。