才能と幸福と未成年の感覚

大人になる、とはどういうことだろう?

今の私が定義するなら、「こだわりを捨てられること」だと考える。上の言うことを聞く。そうする理由は、仕事をスムーズに進めるためとか、自分の心を楽にするためだ。

…否、より厳密には「こだわりを持てなくなること」が、大人になるということだ。

こだわりとは、視野狭窄であり、妄想であり、独善だ。そしてこの「こだわり」の感覚はイコール「未成年の感覚」であり、同時に「才能」でもある、と感じる。つまり、こだわりを捨てると、大人になり、才能は縮む。「縮む」という表現をしたのは、完全に消えるわけではなさそうだからだ。

才能について

20代の初め頃…私には絵の才能があったと思う。というのは、当時の私には「こだわり」があった。より正確に言うと、「素晴らしいものを作って、他人を圧倒しなければならない」という、攻撃的な強迫観念があった。「ものすごく上手く描けるようになって、他の絵描きを実力で殴りたい!」と感じていた。切磋琢磨、和気藹々ではなく、蹴落としたいという欲望があった。特別な自分、最強の自分を夢見ていたのだ。当時は今以上にメンヘラであり、さらに色々な「人生初」を経験していた時期なので、私の20代初頭は思春期のようである。

27歳になった今は、そういった強迫観念はなくなり、才能のある感覚ももはや消えてしまいそうである。「こだわり感」の残りカスのようなものはあって、そこに今からでも肥料と水をやれば、強迫観念が復活する可能性は感じている。ただ、もう27であるから、こうなると才能というより努力になるだろう。強迫観念を復活させてめちゃくちゃ頑張ろう、とも思わない。

強迫観念に導かれ、妄想を繰り広げると、とても良い絵が描けたものだ。あの感覚はおそらくフロー状態とも呼ばれるものであり、全ての要素に意味をつなげることができた。これが行きすぎると統合失調症になるのだと思うが、今はそのような妄想能力は衰退している。妄想力が落ちた原因は身に覚えがあり、それは24歳のとき始めた瞑想である。

瞑想は妄想を止める

瞑想をすると、頭の中がシーンと静まってくる。妄想が止まり、感情の起伏が穏やかになる。これは、クリエイター以外にとっては本当に良い方法である。クリエイターにとって良いかどうかは答えの分かれるところだろう。先述の「妄想」や「強迫観念」がごっそり掃除されてしまうのだから、若き才能を爆裂させることとは究極に相性が悪い。

イラストや漫画を描いたり、仕事でデザインを作ったりして、己の内面を観察してみた。確かに「作ること」をしてはいるが、瞑想を始める前まではあった「もっともっと最高に良くしたい」という気持ち、言い換えるとこだわりが、なかなか湧いてこない。そこそこ良いと感じるものを、てきぱきと作っている。というわけで、今までのところの結論は「クリエイティブと安穏は両立できない」である。

しかしひょっとしたら、「こだわり感」と「静かな精神」を器用に両立するというか、こだわりを自在にコントロールできるクリエイターもいるのかもしれない。(私の目指すべきものは、ここかもしれない)

何か大切な美しいもの

私は楽になりたかった。アダルトチルドレンの脱却方法を調べて自分なりに実践したり、わざと他人に嫌われるように振る舞う「悪い子キャンペーン」をしたり、瞑想を始めたりして、私の精神はどんどん健全になっていった。健全な精神では、正しさに固執して他人への攻撃性を高めたり、幻覚的な妄想を繰り広げたりすることはできないのだ。

精神が健全になるたびに、私の内にあった「何か大切な美しいもの」―固執、幻覚、不幸- 未成年の感覚は、どんどん抜け落ちていった。もうその羽根を挿し直すことはできない。否、「元に戻りたい」と思うことすらできない。固執をやめ、幻覚を見ることをやめ、不幸に浸るのをやめると、幸福に近付く。大人は美しくないが、幸福だ。私はすっかり大人になったのである。

20歳の夏頃、アルバイトの帰り道でのことだ。私の心を覆っていた岩盤が欠け落ちて、光が射し込んできた…そんなイメージを得た。それを始まりに岩盤はどんどん崩れ落ちていき、今となっては少しも残っていないようだ。今思えば、あの岩盤もまた「何か大切な美しいもの」だったのだろう。幼少期から無意識のうちにせっせと造り上げた、グロテスクな要塞だ。言うまでもなく、己の精神を守るための要塞である。