人生の成功?失敗?

「瞑想の気づき」系記事の最終更新は、約3ヶ月前のコズミック・シャワーとなり、これ以降しばらく考えたり考えなかったり、うっかり自我に振り回されたり、バックグラウンドで考えていたりしたのですが、思索がグイッと進みました。

メインテーマについて書く前に、ここから前置きを書きます。まあまあいつもと似たような話するだけなので、飛ばしても記事メインテーマの理解には問題ありません。


先日、急性胃腸炎になりました。ものすごい激痛で生命力の低下を感じまして、具体的には見たことないような低血圧の値になりました。

で、さらにそこで受けたCTによって別の場所に腫瘍が見つかり、今治療してる所なのですが、とにかくここ最近で「生きるのって大変だなあ」と感じたのです。

病院に行くと、体の動かない老人がいっぱいいました。

彼らがここまで長生きできたのは、「苦しんでいる人を救いたい」という優しさによって発展してきた医学があるから、つまり、人間として当たり前で素晴らしい「優しい気持ち」のおかげです。まっとうな「優しい気持ち」で、当たり前に苦しみに対処して、それでもだんだん体が動かなくなっていき、最終的には死んでしまう。

対処しても対処しても、新しい苦しみが出てくる。すると、もっと難しい対処が必要になる。人間を淘汰する疾病や天災に、対処できてしまうことによる人口爆発。当然、病気で苦しんでいる人は助けたいし、仲間たちが下敷きになるのは嫌だ。

当たり前の、優しい、人間的な気持ちです。

・・・。

生きるということは、根本的に苦しみなんだと、改めて感じました。


概念の階層・概念ツリー

「概念の階層」とググると、なんかむずそうな学問のページばっか出てきますが、そういう話ではないです。「概念ツリー」はコンピュータで検索するときに使う仕組みですが、その話でもないです。ただ、この二つの言葉は私が説明したいことそのものを示していると思うので、元の意味からずれるかもしれませんが、勝手に使います。他の場所で使っても、多分誰にも通じません。

今回のメインテーマは、「真理の前に引きずり出されれば、下位概念は無力!」って感じです。

「真理ってなんやねん」というと、「ただ、そうであること」「大いなる存在」です。「引きずり出す」というのは、「同一階層の概念ではないと確認する」ことです。上位概念と対峙させて、「お前は下位概念なんだから包括される立場だよ」と確認するのです。

「真理=ただ、そうであること」は、あらゆる概念の最上位にある、もっとも大きく強力な概念…だと、私は現状ではそう考えています。

↑自作の図です。勝手に使っていいよ(使いどころ?)。

たとえば、「りんご」ありますね。「りんご」の上位概念として、「双子葉類」があって、その上には「植物」があって、さらに上には「生物」がある……、というのと同じです。

「うちには犬がいるよ」という話に向かって、「じゃあ哺乳類だね」「脊椎動物だね」と言ったら、「そのとおり」です(変な会話ですけど)。上位概念は、下位概念を例外なく包括するものです。

でも、「犬がいるよ」と言っただけなのにいきなり「じゃあ、柴犬だね」と言われたら、「いや、シベリアン・ハスキーですけど」ということになり得ます。例外だらけです。下位概念は、上位概念全体を「このとおりでしょ」と指し示すことはできないのです。

リンゴや犬だと「ただの生物分類じゃん」となりますが、これを哲学や他の学問範囲にも一気に拡張します。

わかりやすいものだと、「ゲーム」-「RPG」-「ポケモン」-「ポケモンバトル」のような感じですね。

「目標」は「思考」の下位概念であり、「思考」は「脳の働き」の下位概念です。

で、「ただ、そうである」という「真理」(哲学用語で、ナマの事実ともいう)は、論理も科学も価値観も何もかも包み込んでしまう、最大最強の、最上位概念です。

「ただ、そうである」-「有 / 無」-「存在」-「因果」-「論理」…のようになります(非常に抽象的で難しいので、今ここではあんまり正確に考えてないです)。

論理的なことを書いたとして、人間がそれを「論理的だなあ」と感じる、という条件(ただ、そう感じるということ)がなければ、その論理性は成立しないのです。その「論理的だなあ」と感じる「理由」は、ないのです。「とにかくそれを“論理的だと感じてしまう”ように人間はできている。ただ、そういうことになっているのです。

科学も、「りんごが落ちたのは重力が働いたから」というような「実験・分析」を膨大に集めて新しいことを発見していきますが、「ただ、そうであること」は分析や研究をされなくても、そこにただあります。先に「ただ、そうであること」があって、それを科学は後から見つけて、人間の視点で分類しているのです。

価値観も、真理の中に内包される人間、に内包される思考、です。

「成功・失敗」は、「真理」の下位概念

で、なんでこんなこと説明したかというと、私の中にある強烈かつ長期間の違和感の正体を、みなさんにも知っていただきたくて、その理解のため説明しました。

私は、さっきまで「成功したいような、したくないような…」という風なことを感じていました。ここでの「成功」は、「起業か独立して、まあまあ金持ちになる」とします。具体的なものは何もないのですが、例えばイラストレーターとして売れるとか、ブロガーとして稼ぐとか、そういう「成功と言われる状況」に、「なりたいような、なりたくないような」「“なりたい”と思わなければいけないような」、「ぼんやりとした方向」のみがあったのです。

そもそも「成功したいからアレして、コレしよう」というよりは、「とにかくアレをやりたい!コレをすべきなんだ!」と思って無心でやっていたら、いつのまに成功者になっていた、というのが健全なサクセスストーリーだとは思います。

ただ、それはそれとして、社会の中にいるとどこでも成功譚とか金持ちの道楽の話が聞こえてきますので、もし自分だったらどうかなあ、どれを選びたいかなあ、と考えた時の話です。

成功…したいような、したくないような。この妙な気持ち、違和感を解剖していきます。なぜ「成功したい!」と思わないのでしょうか。

そりゃあ、「なぜ」も何も、そう思わないから、思わないのです。まず、元手の「成功したい」という気持ちが少ない。少なくとも、そのまま実行に移すには不足している。

そこで、何か理由があって、たとえば「どうせ無理だから」とか「成功したら美しくないから」とか考えて「成功したい度」を後から引き下げているわけではありません。同時に、「金持ちになりたい」とか「モテたい」などともあまり思わないので、つまり理由がないので、「成功したい度」が後から引き上げられることもないのです。

元手の気持ちのまま、成功には、そんなに興味がないのです。

その一方で、私が何を求めているかというと、「真理を求めている」のです。もっと優れた上位概念への結びつけ方を発見して、もっと一般化して、納得したい。「コレひとつで全てを説明できる概念」があったら、素晴らしい。

それによって我々は不幸になるかもしれない。しかし、私はその、あるか分からない「完璧な概念」の美しさ、完全性に惹かれてやまないのです。で、その「完璧な真理」の中において、「成功・失敗」なんてものは、何の意味も持たないのです。

意味が無いという話なら、「じゃあ、夕飯はどうやって選ぶのか」「パートナーも誰でもいいのか」という変換が出てきますが、夕飯は味覚に直接響きますし、栄養価によって快適さが変わるので選べます。身体の意見ですね。パートナーも、「なんとなくいいかんじ」があり、性格の一致があり、好みがあり、といった感じで、選べます。精神の意見ですね。

メシもヒトも服も、そこまで興味がなくても選べます。感じることによる判断材料が、いくつかあるからです。つまるところ、私は「成功か、失敗か、中間か」を選べるだけの判断材料を持っていないのです。「成功したい理由」「失敗したい理由」「中間でありたい理由」が、無いのです。未来の話なので、どれも感じたことがなく、判断のしようがないのです。

強いて言えば、「チルボドのライブに行けるだけの経済力は確保したい」という感じですが、毎回全通とか海外遠征でもしなければ、成功でも中間でも失敗でも行けます。起業もする必要ありません。

「成功すれば自由に世界一周できる」と言われて、無理やり「よっしゃ!行くぞ!」という気分に一瞬することは出来なくはないですが、10分で飽きてしまいます。「チルボドに貢ぐため」なら、まだ頑張ることはできますが、「成功するために」情熱を燃やすことはできません。

やらされることはできますが、自主的に頑張ることは、少なくとも継続してはできない。歯抜けの気まぐれでいいなら、このブログも将来何かの材料になるかもしれませんが…。それは結果の話です。

チルボドの曲は私を救いましたが、成功は未来の抽象的な話で、現状まったく私の役には立っていません。

そんなわけで、現在の情報量では「まあ、成功したら金があるからチルボド見れるなあ。でも成功しなくても見れるし、成功したらしたで面倒そうだな。」みたいな、意味をなさない答えしか出てこないのです。

もし、この問題にさらに正面から向き合いたいなら、「成功者」「中間者」「失敗者」がどんな生活をしているのか、具体的に知ればいい。そこで初めて「こういう生活がいいな」と、決める理由が見えてくる。といっても、側で観察してみないと「どんな生活か」は見えませんし、サンプル数も必要です。なかなか、できることではないですね。非現実的なお話です。

実際のところは、成功というものが「どんな生活か」なんて気にせずに「成功してぇーッッ!!」と、突っ込んでいくものかと思いますが、私にはそれだけの「成功したさ」がないのです。

「成功したいような、したくないような」という前述の感覚とは、「成功も失敗もどうでもいいけれど、何故かそれを捨てきることができない」という気味悪さなのです。

3年くらい前から、こういう心境があります。理由も価値も何も無いはずなのに、ぼんやりと「その方向」を見ていなければならない気がする。社会の目を気にしているのでしょうか。それとも単なる無知からか?もっと別の何かかもしれませんが、今はまだ分かりません。ただ、「成功や失敗は、真理の下位概念じゃん!」と今回気づいたので、「ぼんやりとした方向」は少し薄れると思います。

失敗した人生?

私は、全日制の高校を中退しています。その後、改めて通信制を卒業してから専門学校に進んだのですが、それまでの流れの中で、こんなことを父親に言われました。

「これ以上失敗してどうするの」

「これ以上」、ということは、何か私がアクションを起こそうとした中での話なのですが、それは今回は置いときます。4年ぐらい前の話なのですが、正直

「えっ?私は“失敗”したのか?」

と思いました。まあ、社会一般的には「失敗」なんでしょうが、どうも、その「失敗」という言葉が意味を持たないように感じられたのです。

私は進学校を不登校→中退して、すなわち「優等生」から「落ちこぼれ」に一気に転落したのですが、「それで良かった」と本気で思っているのです。

ただ、この「良い」は、「Good」ではなく「OK」の「良い」です。A評価ではなく、◯×の◯です。そしてこの世界に×はないのです。

ようは、何が起こっても 私の人生というものは、こんな感じなんですよ と思っているのです。起こること全てが「私らしさ」の材料です。

こうなると、さっきの「成功したいか分からないよー」という話は、前提が怪しくなってきますね。

周りいわく失敗していても「私は失敗したのか?」とか抜かすんですから、成功しようが何だろうが「私の人生だなあ」という風にしか思わない気がします。社会で使われてる枠は、狭いのかもしれません。

「運命を変えようと一生懸命に戦う、という運命を作る」という考え方なので、何をやっても正解だと思ってます。「正解」と「倫理的に正しい」や「高収入」は、必ずしも一致しませんよ。「優れている」とか「誰も傷つかない」という話とは別です。「真理にとっては、問題ない」ということです。「全てが、ただ、そうである」「それでOK」という意味の「すべて正解」です。私にとって、人生で成功するとか失敗したとかいうのは「他人から見た、下位概念」でしかないのです。下位概念のうえに他人の感覚です。真理の前ではレッテルなど無力なのです。

…ということを、「失敗した」と言われた時も感じてはいたのですが、4年経って文章になりました。といっても4年悩んでいたわけではなく、たまたま今回のテーマに体験談が関連付けられただけです。

何も分からないのなら…

さて、いろいろ書いてきましたが、まとめてみましょうか。

結局、絶対的な価値というものは何もない。さらに、この「何もないんだ」という考えもまた幻想である。本当に、人間には全体像が何も分からない。

ここまでは来てるのです。「分からない、ということがわかった」のです。次の問題は、「それなら、なぜ生きるか」と「では、いかに生きるか」ですね。

たぶん、これらは頭で考えて答えを弾き出すものではない、そんな気がします。だって、考えた結果「人間には何も分からない、ということがわかった」んですから、そんな不安定な前提の上では答えの出しようがありません。

考えた結果が使えないなら、残された手段は、感じることです。「身体が生きるように組まれているから、生きている」「心の求める大きな方向に向かって生きる」という感じになりそうです。