世の中は譲り合いらしいから…

「自分は”譲り譲り”だな」と思う人は、もっと積極的に譲られましょう。その方が健康的だ。という話。

世の中は「譲り合い」だ、とよく言われている。だから、いつも自分が譲ってばかりな気がする人は、世の中が言ってるそれに便乗して、もっと自己中かまそう。今までの分をどんどん譲らせよう。…さもなければ、損してる感が溜まって、そのうちビョーキになる。

一番わかりやすい例を出すと、電車の席。

座っている時に混んでくると心苦しくなるので、最初からずっと立っている。また、目の前の席が空いたら、なんとなくいつも隣に立ってた人が座ることになる。こんな人は譲りすぎだから、勇気を出して座った方がいい。そして、その後目の前が混んできても、心苦しさを頑張って跳ねのけて座り続ける。こういう練習をした方がいい。

分からない人には分からない感覚だろうけど、譲りすぎの人は、譲られることに罪悪感があるのだ。だから彼らは、譲られたら「いえいえ悪いですから」と必死に譲り返す。とても「良い人」たちだ。

それからこの国では、「良いことをすると気持ちがいいなあ!」というようなセリフが、子供の頃から丹念に叩き込まれている。こんなセリフを真に受けて実践するような良い子こそが「譲りすぎ」の大人になるのだ。

だから、気付けない・抜け出せない人は多いと思う。でも、人間は自分が譲りすぎて損ばかりしていると、精神が悲鳴をあげてしまうのだ。

昔の自分は「良いことをすると自分も良い気分になるんだ」「譲ると心がスッとするんだ」と信じ込んで、たくさん譲っていた。疑うことなく、完全に信奉していた。

しかし、そういう「良い人」を辞める努力をし暫く経った今は、「譲るより譲られる方が気分がいい!」と思っている。言い方を変えると、譲ることは当たり前のことではなく、良いことだとして自分を褒めることができるようになったのだ。これは、他人もちゃんと褒められるってことに繋がる。

「良い人を辞める努力」って、どういうことか分からない人もいると思う。自分がやったのは、「他の人がやったら普通の範囲だけど、自分がやったら罪悪感がある」ような行為を、意図的に重ねること。電車で席が空いたら遠慮なく座り、老人が来ても譲らない。列に並んでるのか分からない人は抜かす。わざとメールの返信を適当にする、など。最初は心苦しさがあったが、回数を重ねるうちに慣れてきた。

そして最近は、この練習によって「お互い様」の気持ちを得てきている。こう書くと非常に気持ちの悪い言葉だが、つまり誰かがちょっと自己中なことをした時に「まぁ自分もやってるし、人間そんなもんだよな」と許せる気持ちだ。悪い意味での、お互い様、ということだ。「自分も悪いことをしている」ということを、実践を通して知っておかないと、何かあった時に「自分はこんなにも正義なのに!」と思ってしまうことになる。それは、自分も周りの人も苦しめることになる。

「自分はよく考えたら周りに迷惑かけてるなぁ、自分はワルなんだなぁ」と考えるだけでは、あまり意味がない。悪いことを継続して実行するのが大事だ。これから先も、わが人間の勉強は続いていく、として筆を置くことにする。