情熱は如何にして燃えるのか?

最近、創作活動をあまりしていません。時間の問題ではなく、いわゆる情熱が薄いのです。

情熱とは、どのようにして現れるのでしょうか。

欲望同士のバトル

デイヴィッド・ヒュームという哲学者の言葉に「理性は情念の奴隷である」があります。

一般社会では、「本能を理性で抑える」とか「己を理性で統制しよう」などのように、「理性を働かせて感情をコントロールすることは、優れたことだ」と言われています。感情や本能という「獣の衝動」と、理性という「人間の英知」があって、我々は人間なのだからきちんと「英知」をもって「獣」をしつけなければならない、と。欲望のままに行動するのなら動物と同じであり、劣っている…多くの場合、そういう印象を持っています。

しかしヒュームは「理性と感情・本能・欲望etc…は、対立するものではなく、主従関係にあるものだ」と言います。理性が感情に追随している。すなわち、感情や本能がまず先にあって、それを達成するために理性を使用する。

たとえば、原始人が「おいしいものを沢山食べたい!!」という欲望を持ったとします。ここで、理性は「でも、みんなで分け合わないといけないから我慢しよう」と囁きます。この「分け合わないといけないから我慢しよう」という理性は、「みんなで分けたい」という欲望に従っているのです。「沢山食べたい!」という欲望と、「みんなで分けたい!」という欲望が戦っているのであって、「沢山食べたい!」という欲望と「我慢しよう」という理性が戦っているわけではないのです。

さらに掘り下げると、「みんなで分けたい!」という欲望は、たとえば「独り占めしたら嫌われるから」という理性に繋がり、それは更に「嫌われたくない!」という欲望に繋がります。「嫌われたくない!」→「嫌われると、追放される」→「この群れの中にいたい!」→「群れの中にいれば、安定した生活ができる」→「安定した生活がしたい!」…という感じですね。

理性とは、欲望を別の欲望と比較検討するための橋なのです。そこで、もし「沢山食べたい!」という欲望が、何かのきっかけで「みんなで分けたい!」「安定した生活がしたい!」という欲望を上回ると、沢山食べちゃいます。あまりないことですね。

現代社会では、「仕事に行きたくない!」という欲望が「安定した生活をしたい!」という欲望を上回ると、仕事に行かなくなります。それは理性がないからではなく、「安定を捨てられるレベルに、ものすごく仕事が嫌だから」なのです。

不安だから描いていた

さて、現在の私は「怠けたい!」とか「無駄なことはしたくない!」などの欲望と「作品を発表したい!」「新しい表現を試したい!」などの欲望が戦っていて、今のところ「怠けたい!」がやや優勢なのでしょう。学校では真面目に作品を作り、たまには自主的な制作もするので、「やや優勢」くらいだと思います。まあ、学校の方には「クラスのみんなに真面目なやつだと思われたい」とか「先生にちゃんとした評価をもらって無事就職したい」などの、ちょっと違うベクトルの欲望が関わっているとは思いますが…。

こんなことに気づいて問題にするあたり、「昔は『描きたい欲望』が勝っていた」のです。

以前の私が一生懸命絵を描いていた理由は、いくつか挙げられます。

その中には、けっこう大きな割合で「しっかりした絵を描くやつだと思われたい」、言い換えると「絵が下手だと叩かれたくない」という欲望があったのです。自分の存在価値とか、俗に言う自己肯定感なるものが不安定で、こういう発想が出てきたのだと思われます。取り柄の絵がちゃんと描けないと、いよいよ無価値になってしまう気がしていたのでしょう。

なんだか他人事のような書き方で、分かった人もいるかと思いますが、最近はもうあまり「うまく描けなきゃ自分はダメなんだ!」とは思わなくなったのです。たぶん、瞑想の成果です…。俗に言う自己肯定感が高まった…のかもしれませんが、そういうつもりはありません。

この世の無常を体験して、自己を「肯定しなくても良いことに気づいた」という感じです。「自分にも世界にも、元からなんにも価値がなかった!」と気づいたら、そこで「絵が下手だと叩かれたくない」という欲望が無くなります。べつに絵が描けなくても問題ないな、と分かるのです。

でも、今まで描き続けてきたスキルが勿体ないから、捨ててはいません。描くこと自体は嫌いではないですし、自分で描かないと見れない絵があるのでね。

で、そうなってくると、先ほどの欲望バトルの構図が変わります。

以前の構図

【描く軍】「作品を発表したい」「新しい表現を試したい」「下手になりたくない」

【描かない軍】「怠けたい」「無駄なことはしたくない」

結果:描く軍の勝利

現在の構図

【描く軍】「作品を発表したい」「新しい表現を試したい」

【描かない軍】「怠けたい」「無駄なことはしたくない」「べつに描けなくても問題ない」

結果:描かない軍の勝利

あらら〜っ、という感じですね。

勝利した欲望の分が情熱となる

この構図を変えて、再び【描く軍】を勝たせ、私が「情熱的に制作にあたる」ためには、たとえば「自分の作品は誰かの役に立つ」とか「描くこと自体が楽しい」とか、とにかく新しい欲望を【描く軍】に追加参戦させて、勢力で【描かない軍】を上回る必要があるのです。

「成功するには情熱が大事!」と、よく言われます。そうなのです。情熱を保つには「成功したい」という強烈な欲望を【やる軍】に引き入れる必要があるのです。

まあ「成功したい」だけじゃなくて、「モテたい」とか「うまくなりたい」とか、なんでもいいのですが、とにかく「強烈な欲望」をいくつか持っていないと情熱が燃え続けることはありません。

今やらなくてもいいことを一生懸命やるのは、人間の、ひいては動物の本能からは外れています。本能をひっくり返すほどの欲望がないと、働き続けられません。じゃあ、情熱を保ちたいならどうすればいいのか?もう分かりますね。

 1.【やる軍】を補強する。

欲望を煽る。新しい意義を探す、金のかかる趣味を作る、成功してモテモテの人に囲まれてみる、など。

 2.【やらない軍】を弱体化させる。

怠け欲を弱める。食事や運動や慈善活動を通ずるなどして、精神鍛錬に励む。

※でも諸行無常です。

「べつにやらなくてもいいか」とは思っているのですが、時々、以前に一生懸命やって楽しかった思い出が蘇るんですよね。楽しかった。だからスパッと切らずに、「また楽しくなりたいなあ」と、「どうやったら情熱を取り戻せるだろう」みたいなことを考えているのでしょう。

表題への解答例

ということで、表題の「情熱は如何にして燃えるのか?」の答えは、今のところ「欲望バトルの結果」だと思います。より正確に書けば、「欲望」は「理性」を従えているのですから、その元にあるのは「根源的な欲求」であって、すなわち「価値観」と「それを喚起する環境」、ということになります。

つまり、情熱とは… 育ってきた環境と、現在の環境の、化学反応 なのかもしれません。

そうだとすれば、考え方をこねくり回すよりも、環境を変えるのが効果的でしょうね。たとえば、負けず嫌いな人が情熱を燃やしたいなら、自分より強い人がたくさんいる環境に身を置く。臆病な人ならば、成長していて自分を追い抜きそうな人がいる環境へ行く。

もしも「情熱を燃やしたいなら」ですよ。「情熱を燃やす」と「人生の成功、勝ち」とか「平和、愛情、真理」などは、イコールではありません。