成長すら絶対的な価値ではない

自分の考えとして文章をまとめていると、書いているうちに「何か新しいもの」がボンヤリと見えてきます。

今までの記事で、「諸行無常・諸法無我だ」「全てはない」などと書いてきましたが、それでも、「ある普遍的な信念」が心の奥底にこびり付いていました。 その存在に気付いてしまった、すなわち、それを虚無の光で照らし上げて、見つけてしまいました。こうして、その信念が私の中で崩れ落ち、「無の段階」が上がったと感じましたので、書き残します。

といっても、ある思い込みが崩れただけで、行動は特に変わりません。 また、この記事で特定の行動を勧めたり止めるよう促す意図もありません。あまり私の意見に流されずに、鼻をほじりながら読みましょう。私もお猿さんの進化系です。  

普遍的な信念が一瞬で崩れ去った

「今より成長したい」という思い、または「“成長したい”と思うのは良いことだ」という信念。これらも、実は、じつは…「そう思っている」だけなんですね。

私も、さっきまでは「成長の価値は、確かにあるものだ」と思っていました。しかし、世界がなくて、私もいなくて、真理は人間には分からなくて、全てがなくて同時にある。そんな時にどうして「成長の価値だけはある」と言えるのでしょうか。

今までずうっと信じ続けてきた普遍的な信念が一瞬で崩れ去ってしまい、こういう時には「残念です」と言うのだと思います。私自身の感想としては、「勘違いを見つけられて良かった・安心した」みたいな感じですが。ふと見つけて、そうしたら同時に終わりでした。あっけなかったです。真理、論理は公平で冷徹ですね。

「死にたい」という人に対して簡単に「死なないで」と言えないのと同じように、「成長しなくてもいいや」と怠ける人々を、私は非難できません。ほう助や肯定もしませんが。成長を目指して頑張る人々には、それなりの応援をします。でも彼らを「本当に素晴らしい」と心底信じ込むことは、できなくなりました。でも否定もしません。自我を呼び起こせば、私は頑張ることも、頑張る人を賞賛することも、一時的にはできます。でも、自己欺瞞からはすぐに覚めてしまいます。  

思い込みという縄が解かれた

成長という最後の光?救い?も遂に潰えて、私はどう生きれば良いのでしょう?ここまで突き詰めると、逆にあっさり答えが出るものです。「成長」という縄にすら、縛られなくて良いのです。

残されたルールといえば、ほかの生物に迷惑をかけるのはやめておこうかな、という程度です。他人の流れにそこそこ合わせて、なんとなく生きてもいいのです。もちろん、頑張りたいなら頑張ったらいいです。自我を発揚せずとも、ぼちぼちやっていれば、傍から見て全く成長しないということはそうないでしょう。

自我を出さなくても、一生懸命働くことはできます。行動ではなく、気持ちや心持ちが変わるのです。心がフラットに穏やかになるだけです。「効率よく成長したい」「他人よりうまくやりたい」という欲はなくなります。

また自分の成長のための時間というのは、成長というものが無限に続く以上、永遠に足りないものです。「どれだけ頑張っても永遠に満たされないうえ、いつか自分はいなくなる」と腹から理解したなら、時間的にも精神的にもかなり余裕が生まれます。

私はどうするかというと、「仕事」はしますが「修行」や「夢想」はしないよう努めます。現在私は、自我をスリープモードにすることで心を穏やかに保っており、自我を覚醒させた時の苦しさにかなり堪えるようになりました。自我が出てきて「一番にならなくては」「成長しなくては」という気分になると、身体が怪我をするのと同じ痛みが胸部に起こります。

「成長」という縄から解かれただけです。いいことです。 縄を解かれたことで自由になりましたが、だからといって必ずそこを離れなければいけないわけではない。移動してもいいし、そこに居続けてもいい。怠けてもいいし、成長をめざし続けてもいいし、他人に合わせて緩やかな成長をしてもいいし、時によってこれらのスタイルを変えてもいい。「成長すべきだ」という縄がなくなった、というか、本当はそんなもの無かったということに、ようやく気付いただけです。あとは何も変わっていません。成長というレールが無くなっただけで、足は無くなっていないので、安心してください。

またひとつ自由になりました。ただ、世の中の全員が私の考えと同じではないので、怠けたら非難する人もいるでしょうし、頑張ったら称えてくれる人も沢山います。それは私やあなたがどうこうできる現象ではありません。できることは、自分の行動を選ぶだけです。