人間の知覚範囲から出られない

「ただ感覚だけがある」「諸行無常だ」と書いてきましたが、今、その先を覗いています。というか、旧ブログで随分前に考えていたことに、戻ってきてしまいました。  

この感覚は「人間の感覚」

大まかにまとめると、「この感覚は“人間の感覚”だから、その枠の中であれこれ考えても、それは“人間の答え”にすぎない」という話です。 「人間こそが最先端で完璧な存在だと設定するのは思い上がりだ」とも言えます。猿が相対性理論を理解できないように、人間も、人間の感覚を持っているがゆえに、宇宙の真理は分からない。宇宙や神の感覚じゃなくて、ただの人間の感覚なんですから。あ、でも「自分が宇宙である」は論理的に肯定できませんが否定もできないですね…。まあ、今はいいか。

とにかく、人間の理性というものを過大評価しないように、ということです。   この旧ブログの記事を書いた後にニヒリズムに陥って、そこから唯識だ瞑想だとやって、自我を薄めて、その先で(違う世界の見方をしていて)また同じ結論が出てくるのは、大変興味深いですね。 「結局同じ答えなんだから、今までのニヒリズム唯識瞑想のところは無駄だった」とは思いません。むしろ、「この説が強化された!」と、喜ばしい気持ちです。「真理は分からない」ということが、分かりました。

真理には二段階あるのではないか

「人間には真理は分からない」というのが第一の真理(宇宙の真理)で、「諸行無常・諸法無我」が「人間の理性で認知できる中での真理」=第二の真理(人間の真理)…という気がします。「この世は無常だ・何もない」ということと、「でも私には何も分からない」ということ、両方正しいと思いました。ポイントは、「私が正しいと思いました」というところで、私は人間なので宇宙の真理は分からない、だからこの主張は絶対的には正しくないのですね。 残念ながら、我々は幻想の中で生きるしかないようです。  

自分騙しから目覚める

「世界の意義がなくなった」という自分の感想にすら、意義がなくなってしまいました。だからといって、世界に意義が復活するわけでもなく、といって世界の意義が確実にないわけでもない。 マジで、なんもないですね。

私の心臓が勝手に動いているのは、生存本能があるからだと思います。大いなる何かによって、良くも悪くもただ生かされている。生きているという概念を持たされている。 ここまでくると、もう頼れそうなものが生存本能と自我しかなくなって、ニーチェのようになるのも仕方ないかなと思います。

でも「ニヒリズムを克服して、力強く生きるぞ」というのは、自己欺瞞です。真っ正面から、ニヒリズムやら認知的閉鎖やら諸行無常に向き合わなければ、いつまでも自分騙しに夢中のままです。  

ニヒリズム ぼよよん オムライス

「この世はない・私はいない・人間に真理は分からない」の三大「ない」に真正面から向き合うと、もうどうしようもないように思えます。「ない」といっても「あるの反対」ではなく、「わざわざ意味をくっ付けてるのは人間」というような感じです。あろうがなかろうが、それらに意味付けをするのが人間、そしてその意味はない、これを「マジでなんもない」と言ってます。見えるものがただ見えているだけですが、そこで「見えるってことは、ある」「これは◯◯だ」と思うのは意味付けということです。

ところで私は「自我がうんぬん」と書いていますが、その「自我」を認識している「親自我」のようなものは、いったい何なんでしょうね。親自我を認識したら、爺婆自我があることになって、それを認識したら更にその親となる自我が想定されるわけです。 これについて、かの有名なカントさんが何か書いているようなので、調べたりしようかなあなどと考えています。 あと認知的閉鎖説を唱えているコリン・マッギン氏がけっこう最近の方だというのに驚きました。

いよいよ、考えても仕方がなさそうな領域に来たなという感じがします。でも、またそのうち何かしら思い付くんでしょうね。まだ自分は若い(はず)ですし、社会人になったら見えることもあるかもしれません。