オンリーワンとはナンバーワンのことである

ニヒリズムを経て、「唯識」というキーワードから仏教に興味を持ち、瞑想を約1.5ヵ月続けました。ここ一週間は、毎日ではなく時々瞑想しています。同時に本やネットでお釈迦様の教えを学び、時には自分で真理や人生について考えてきました。

その結果、以前とは心がかなり変わりました。… が、もともと貪欲な性格ではなかったので、行動がガラッと変わったわけではありません。自分の内に起こる反応や、思考方法、視点なんかが変化しました。

まあ私のことなので、多分そのうちまた次の考えが出てくるとは思いますが、ひとまず今の考えをまとめます。

キリギリスは森で生きる

諸行無常・諸法無我 --この世の全ては変わり続けて、この世の全ては本当は無い--お釈迦様の説いていたことは、一つの真理だったんだと思いました。

……でも、それを私がすべて飲み込んで、そのまま踏襲しなければならないかというと、違います。少なくとも、焦る必要はない。最終的には、自分の生き方は自分で考えて決めることです。ただ、どう生きるかは自由だけれど、自然の摂理に逆らったり周りを蔑ろにはできない、そして前提として、生きることは苦しいことだ、ということでした。

私たちは、アリでもいいし、キリギリスでもいいわけです。個人の好みや能力で、どう生きるか自由に選ぶことができます。ただ、アリもキリギリスも、彼らの住む森を変えることはできません。食物連鎖のピラミッドを変えることもできません。自分がアリやキリギリスであるということも変えられません。そしていつかは土に還ります。どう生きるか自由に選んで、己の道を歩んで構わないのですが、「森に住む小さな昆虫」という自然界での立場を離れることはできないのです。

生きることが苦しくて世の中が不公平なのは、前提であって、現実です。そして、人間以外の動物は、みんなその成り立ちの中に収まっています。肝心なのは、その苦しい現実の中でいかに苦しみを取り除くか、です。誤魔化しは、誤魔化しに過ぎません。

自我を鎖に繋げる

生きる苦しみの原因は、自我です。自我とは「私が」という思いそのもので、これが制御不能だと苦しい。制御するには練習する必要があって、その練習法が瞑想とかお釈迦様の教えを守ることです。

自我は、無駄な思考をドンドン押し付けて、私たちを疲弊させます。諸行無常・諸法無我、すなわち「全ては変わり続ける(最後には朽ちる)」「“私”はいない(何もない)」という真理があるのに、それを完全無視した思考を生産し続けます。当然、現実とのズレがしょっちゅう生じて「うまくいかない」「なんで私だけが」などと感じさせられます。しかも常に押し付けてくるもんだから、それが正しいんじゃないかと勘違いさせられるのです。

まだ私が完全に自我に囚われていた時、「何かを諦めると、ちょっと幸せな気分になる。奇妙な現象だ…」というようなツイートをしたことがあります。自我があったから「いやいや、諦めて幸せな気分になるなんてのは、きっと幻想の気分だし、甘えだ」「なんか嫌な気分だな、偽の幸福感に騙されないぞ!」などと思ったのですが、今となっては、そう思わせてくる自我の傲慢さ・狡猾さに驚きます。

簡単に諦められたら自我が困るから、必死に幻術にかけようとしてくるんですね。自我は「私」こそがいつもナンバーワンでオンリーワン、特別な存在だと思い込んでいます。それで、いつも「この私が諦めるだと!」「この私がしてやったのに!」などと文句ばかり垂れています。それをこちらに押し付けることで、気分を塞ぎこませたり人間関係を悪化させたりしてくるので、正直迷惑ですね。

とはいえ完全に自我を殺すと社会生活ができないので、無くすのではなく鎖に繋ぐのがいいと思います。繋げておいて、なるべくエサ(ブロガーの一攫千金話や自己啓発本を読むなど)はやらない。必要な時には仕方なく出しますが、鎖には繋げておきます。自我は煩悩のラスボスなので、ちょっと油断するとすぐ取り込まれます。ですから、その日のうちに瞑想するなり説法を読むなりして引っ込めます。

オンリーワンにもならなくていい

ナンバーワンにならなくてもいいですが、オンリーワンにもならなくていいです。なりたければ、それは個人の選択ですから、なればいいですが、「全員がオンリーワンだ」という意見に全員が従わなくてもいいのです。

というか、そもそも「オンリーワンになろう」という発想の土台は「みんな違って、みんないい」です。間違いではないのですが、その土台の上では、何もしなくても…極端には、ニートでもカタツムリでもリンゴでもホコリでも、何でもかんでもあらゆるものは全て自動的にオンリーワンです。「ただ存在しよう」と言ってるようなものです。意味を持たない言葉です。そして、残念ながら全て「存在」はしません。対比で出現しているだけです。

意味の無い言葉なのですが、真面目な人は「オンリーワンらしい、特別な者にならないと」と思ってしまいます。それは「オンリーワンのナンバーワンになる」というような感覚で、非常に難易度が高い。また、個人ではなくビジネスでオンリーワンを目指すとすれば、それは狭い領域でのナンバーワンを狙うということに他なりません。

「みんながオンリーワン」という言葉は、「全く同じ存在(=競争相手)はおらず、絶対的な優劣の基準もないため、自動的に全員がナンバーワン」という話で、意味を持たない言葉です。

ナンバーワンやオンリーワンは幸せの条件でもありません。オンリーワンと言えば「個性が大事だ」という話になりますが、人によって個性的だと思うポイントは違います。大概、単なる数の多寡で測られますから、国や歴史によって個性的とされる特徴は変わります。ですから個性というのに特に意味はありません。たまたま多かった・少なかっただけです。そして、表に出てくるのは「表に出せるレベルの個性」です。

「ナンバーワンにもオンリーワンにもならなくて良い、どちらも幻想だ」と気付いたとき、私はとても楽になりました。重い荷物を降ろせたようで、自由を感じました。私は何かを諦めたのかもしれませんし、悪い意味で大人になったのかもしれません。でも楽になれたんだから、それで良かったんだと思います(これも“大人のせりふ”ですね)。

世界が無常だと知り、私はいないと分かり、成長発展の意味がよくわからなくなり、欲が減り、怒りも減り、ナンバーワンにもオンリーワンにもなる気がなくなりました。ここまできたら、当然というべきか「なぜ自分は生まれてきたのか?」「なぜ生きるのか?」という問いが起こってきます。次のステップは、そのへんを考えることかな、と思っています。