諸行無常と諸法無我

言葉だけは知ってる人も多いと思いますが、実際に感じたことはあるでしょうか。これは大昔のインド人が言ったことなので、時代を経て翻訳されているわけで、現代日本の私達が当時のままの意味を掴むのは難しい。ただ、私なりの意味の理解を書くので、適当に読んでください。

全て現れては消えていく

おふろに入るのが一番分かりやすいかと思いますが、水面に浮かぶ泡というのは、何気なくスッと生まれて、ちょっとしたことでフッと消えてしまいます。私たちが意図して何かしなくても、なんとなく生まれていて、いつの間にか消えています。

おふろのお湯は常に動いています。原子レベルでは、同じ所に留まることはありませんし、空気中の酸素も溶け込んできます。同じように、空気も常に流れていますし、私の身体も常に細胞が入れ替わっています。全てのことは、いつでもどこでも変わり続けています。

泡の生滅はほんの数秒の話なので、儚さが分かりやすいですね。

では、儚さとは、時間で決まるものなのでしょうか?

時間は主観的で相対的

「時間」という概念は、物心ついた時からあります。動物がどう感じているかは分かりませんが、人間である私たちは「あと何時間ある」とか「あと何年でどうなる」とか考えます。「時間」という物体が空にドーンと浮いているわけではなく、物事が流れていくことを見て、時間の流れを感じています。

何かにものすごく集中して何時間も経っていた、というのは、周りの変化に気付かないほど集中したから時間が認識できなかった、ということです。好きな子と一緒にいる時も、その子の一挙一動やら表情やらに集中しているので、時間がいつの間に過ぎてしまいます。本人は気付いていないのですが、時計や太陽を見れば、時間がこんなに流れていたと気付きます。

時間というのは絶対的なサイズではなく、ただ周りの現象を見て推測する、主観的なものです。何時間とか何年とかいうのは、社会を作るために創作したおまじないであって、実在する物体ではありません。

泡の人生(泡生?…ビールみたい)は、数秒です。私たちの人生は、80年とかです。この約80年の差は、特に大きな意味があるわけではなく、ざっくり言えば「同じ」になります。

寿命がいくら長くても

私たちは「人生というのは80年くらいのものだ」と思っていて、それくらいが一生の長さの基準だと感じています。ですが、例えば小さいハムスターの寿命は2年くらいで、大きめのワンちゃんでも15年とか20年です。生き物によって寿命は違いますが、それぞれの生を一生懸命こなしています。

もし宇宙のどこかに、寿命が3,000年の生き物がいたとしたら、寿命80年の私たちを見て「なんて儚い。かわいそうに」と思うかもしれません。でも、私たちにとっては80年が普通で、それが人生というもので、他の種族にかわいそうなどと言われる筋合いはありません。私たちはその80年を一生懸命生きるしかないのです。

泡の数秒の命(?)もそうです。私たちから見たら、もはや生滅に気付かないほどの短さ、儚さですが、それでも泡としてはそれが当たり前で、泡は泡なりに一生懸命やってから消えているんだと思います。私たちの人生と、泡が数秒で消えるのと、大して変わらないのです。スッと生まれて、まあまあ頑張って、そしたらフッと消えるものなのです。

私たちの人生を含めた全てのことは、とても儚い。泡も、川の流れも、天気も、考え事も、生命も……全てのものが「今」を一瞬で通り抜けて、すぐ「過去」に消えてしまいます。それは、「そういうもの」なのです。どんなに気合を入れても、祈っても、「そういうもの」なので、変わりません。

「諸行無常」とは、こういうことだと思っています。

もう一つ、「諸法無我」について書きます。こっちは聞き慣れないかもしれませんが、諸行無常の兄弟みたいなものです。

属性は周りとの違いによって初めて出現する

「死ぬ」という現象がありますが、「生きている」という反対の現象があるから、相対的に認識されるのです。片方だけでは存在できません。

同様に、真偽、善悪、美醜、光と闇、若さと老い、健康と病気……あらゆるものが、2つセットです。片方だけだったら、それが100%当たり前なので、比較対象がなくて気付きません。

さて、いろいろ挙げられますが、ここでは「私と、私以外」が最適でしょうか。

「私がいるぞ」と思うのは、「私じゃない人々」がいるからです。「私の身体があるぞ」と思うのは、私の身体はタンパク質だけれど周りの空気は窒素だからです。すべて、比較して規定しています。

「私」という絶対的な、確固たる存在が、最初からあるわけではありません。周りと比較して初めて、その対比で出現しているだけです。「私が生きている」というのは、「私と、私以外」「生と、死」という2つを使って、「私が生きている」と、とりあえず規定しているわけです。ものすごくリアルな感覚ですけれど、全ては仮のお話、フィクションです。

これが、「諸法無我」だと思っています。慣れない単語ですが、上で書いたように「“私” はいない」「全てのことは、本当はない」という意味です。

成り立ちに支えられている

あらゆるものは、常に変わり続けます。そして、他のものがないと存在できません。全ては儚いのです。ですがこの儚さは、逆に考えると、とても安心できることだと気付きます。

私やあなたの細胞が常に入れ替わり続けて、眠るときには意識がなくなって、時には怪我をする。それでも、私やあなたという概念が突然なくなってしまうことはありません。また、他のものがないと存在できないということは、他のものが周りに色々あるから、私やあなたが存在できるということです。

「私が生きるぞ!」とわざわざ常に思わなくても、自動で心臓が動きますし、周りのものがあることによって、自動的に存在できる。不思議な現象です。

私たちの存在は、全ての他のもの=成り立ち、大いなるもの、によって支えられているのです。「支えてもらっているから感謝しろ」ではありません。あなたが「周りを生かすぞ!」と思わなくても、隣の人の心臓は勝手に動きます。

そうではなくて、全ては常に変わり続けていて、全ては本当は無くて、それでも何故か成り立っている、よく分からないけど生きているということです。ただ「そういうこと」というだけなので、感謝してもいいですが、別にしなくてもいいです。

「諸行無常」と「諸法無我」、すなわち「この世の全ては、変わり続ける」「この世の全ては、本当は無い」ということが分かると、ただ生きているというだけで「よくわからんが、なんか、よかった」というような、平和な気持ちになります。それで他人は不幸になりませんし、自分は楽だし、いい感じです。よかったらやってみてください。