いわゆる人間らしさと安穏は両立しない?

1ヶ月ほど前から瞑想をしたり仏教について調べたりして、「この世は無常」「私はいない」といったことが、はっきりと分かってきました。元々強くはなかった物欲や食欲がますますなくなって、お金や地位への欲も弱くなり、発展したい、向上したいなどの人間的な欲求も少なくなってきました。

残念なことに見えるかもしれませんが、それは現代日本の、お金儲けや発展が大事だという評価尺度で測るからです。本当は、お金や地位や価値などなど…は、人々が合意して初めて出現する、おまじないのようなものであって、価値という物体が実在する訳ではないのです。

経済活動と安穏は両立しない?

現代社会での欲求が薄くなり、もはやお金とか地位とかは煩わしく思えてくる。こうなってくると、経済成長のために働くという行動にも意欲が湧きません。この世の中では、前提のように「成長のため」「生き残るため」と言いますが、なんで成長しないといけないのか、何故生き残るのが良いことなのか、よく分からなくなりました。

少子化とか、現役世代が少ないとか、ロボットに仕事が奪われるとか、なんとなく不安にさせる話題が尽きませんが、一体それの何がまずいのかさっぱり分からないのです。子供を無理に持たなくて良くなった、増えすぎた人口が減っていく、単純な仕事はロボがしてくれる。全部良いことのように思えて仕方ないのです。問題が発生するのはシステムが古いからです。

このような現実的な問題でなくても、まず生命には寿命があり、そのうち人類は絶滅し、最終的には地球や太陽も滅びます。そんなことは小学生でも知っているのに、まるで自分たちだけは永遠に若く生きていけるかのように「発展、発展」と言っているのはいまいち理解しかねます。「経済発展で幸せ」「お金を使って楽しい」という「応急措置」ばかりして、肝心の治療=心を根っこから穏やかにすること、これはする気がないかのような不自然さがあるのです。

私はデザインを学んでいるので、「デザインでお客様の売上を伸ばす」「デザインで楽しく便利にする」というのが大事なのですが、そもそも何故儲けるのか、どうして楽しく便利にすべきなのか?そういった前提が理解できないのです。学校に通っているので、スキルはあるのですが、なんだか本質的に・哲学的に悪い事をしてるような気がしてきて、最近そこが少し気になっています。まあデザイン職以外でも、就職先というものはほぼ経済発展が前提なので、デザインだからどうこうという話ではないのですが。

芸術と安穏は両立できない?

経済活動は明らかに「やらされていること」なので折り合いがつかなくても葛藤がないのですが、芸術というのは私の人生のいくらかを担っていますから、気が気でありません。

穏やかな気持ちというのは、苦しみや痛みがない状態です。この穏やかな心をなるべく長く・いつも保つことで、平穏がやってきます。みんな穏やかになったら良いと思います。だって苦しくないんですからね。

反面、芸術というものは、苦しみや痛みから生まれます。素晴らしい芸術家が心を病んでいることは非常に多い。私の大好きなヘヴィメタルも、当然例外ではありません。怒りや苦しみ、悲しみを、凶悪なサウンドで表現しています。「みんな穏やかになったらいい」と思う反面、「でも、これがバンドマンたちの生きがいになっているのだ」とも思い、どうやっても折り合いがつきません。単純な原理をもって、この二つは決して両立しないように思えます。

他人がやっているバンドについてもですが、私自身が取り組む芸術活動=絵画にも関係があります。愛情や憎しみや美学(こだわり)を表現しようと奮闘すると、いい作品ができるのですが、表現するにはある程度その感情を高めないといけません。感情をビーカーから溢れさせた分が、作品に反映されるのです。

感情が起こるところまではいいのですが、それを作品作りのためにわざわざ苦しんで高める、自ら心をかき乱す、この行動が安穏の真逆なのです。

「作品作りのために、わざと感情を高めるぞ」と、自分でこれから安穏の反対に一旦行く、終わったら穏やかになれることが分かった上でやれば、たいした被害にはならないような気もします。とはいえ、やっぱり感情を加速させると自我が出てきて、自分自身に乗っ取られそうになるので、危険ではあるのです。

私の人生というものを生きていく以上、このテーマは放置できない問題なので、ぼちぼち考え続けていこうと思います。