感覚と真実 2

過去記事「感覚と真実」と内容は違いますが、使う言葉が同じになったので関連付けてみます。

「心」「心の性別」といったものは、存在するのだろうか?

ヒトは何かを「ある・存在する」と言う時、色々な感覚を使って判断する。または、学術や経験則を使って推測する。

例えば、そこに自動車が見える。アイマスクをしたら、その視界には自動車はなくなる。でも自動車を走らせれば、走る音や排気の臭いで「自動車が走っているようだ」と認識できる。

ではアイマスクをした状態で、自動車の前に連れてこられたら、どうだろう。その自動車が電源OFFなら、そこにあるとは思わない。

外から見たら自動車がある(真実→ある)が、主観としては何もない(感覚→ない)のだ。

では、心は「ある・存在する」のだろうか。

まず心はヒトを解剖しても出てこない。空を観測しても浮いてない。今のところ、目に見える物体ではないようだ。しかし、我々は心の存在をなんとなく認識している。

さっきの自動車の例と逆なのである。

外から見たら何もないが、主観としては確かにあるらしいのだ。

では、外から見た場合と主観を統合し、ひとつの答えを出すことはできるのだろうか?

…それはできないのだ。

なぜか?それは、真実と感覚は別のカテゴリにあるからだ。

数字と歴史を元素表に並べることはできない。同じように、外から見た場合の真実と主観を「どこか」に統合することはできないのだ。

人間には五感(六感?)があって、色々なことを感じることができる。しかし同時に、五感以外では感じられない。我々は、五感を世界の枠と見なしているにすぎない。

遠くの宇宙人には、我々にはまったく想像できない感覚が備わっているかもしれない。彼らからすれば、「心があるかないか」なんてのは「そこに自動車が見えるかどうか」と同じくらい簡単な問いなのかもしれない。

結論として、現時点の我々には「心は、目には見えないけど、感覚としてはあると思う」以上の答えは、出せないのだ。

もしかしたら将来、科学や医学が発達して、何か新しく分かるかもしれない。ただそれは、大昔の人にとっての地動説みたいな想像もつかないエリアである。それを今の我々があるとかないとか決めつけてしまうのは愚かなことだ。

結論っぽくない結論ですが、こういう形もありだと思います。「心があるのかどうか・どこから来るのか」という問は非常に気になります。