Rody君

先日、家の中のガラクタを捨てることになった。その中には、私が小さい時よく遊んでいた馬のおもちゃ・Rodyがいた。彼はいつからかベランダに出され、ホコリまみれになっていたのだ。

ごみ捨て場にRodyを置いて、戸を閉めて立ち去ろうとした。しかし彼が何だか牢屋の中からこっちを見ているように見えて、結局また連れて帰ったのである。数日後の日曜、砂ホコリで茶色くなっていた彼を洗った。

彼をごみ捨て場に置いて立ち去りかけた時、ある心境が現れた。かわいそうだから拾う、殺されるから助ける、強者が弱者を救って「あげる」気持ちだ。Rodyはこの気持ちによって命拾いした。

しかし、ごみ捨て場より前に、彼をベランダへ捨てたのは私である。「これ、外に出しちゃっていい」という言葉に「あ、いいよ」と言ったのである。部屋が狭くなった、使わなくなった、という理由はあるが、幼い頃世話になったものを家の外へ追い出した。ベランダに出る度に気にかけてはいたが、洗ったりはしなかった。いよいよ捨てることになって、やっと家の中へ入れて洗ったのである。

こちらから捨てておいて、「命を拾ってあげた」とは言えないだろう。

玩具に限らず、広い意味での「捨てる」という問題。

ならば最初から買うな作るなとも、いっそ捨て切れとも、絶対捨てるなとも、拾えとも拾うなとも言えない課題である。

私がひとり立ちする時には、Rody君も連れて行くだろうと思う。おそらく、愛着が強くて捨てられないからだ。そして私はRody君に、もはや信用などされていない。彼は私の心を見張る番犬ならぬ、番馬となってくれると思う。