よりよい生き方はあるのだろうか

世界は成り立ちであり、完全で、幻想で、空である。それを知っている今、苦をできる限り感じずに済むように、俗世を離れて生きることも選択肢の一つではあるが、なんとなく、な〜んとな〜く、それではいけないような気がする。「気がするだけ」であるが、この直感こそ大事にすべき、な気がする。

直感は「私が考えたこと」ではないが、私の奥から湧き、私のみが知っているという、不思議な性質のものだ。それどころか、私の思考や行動すべては、「ゼロから私がしたこと」ではない。直感的に論理を感じることができ、わけもわからず思い付き、どういうわけか体を動かすことができ、同時にそうすることしかできないのだ。

私が「世界とは何なんだろう」とか「私とは何なのだろう」などと思索を始め、続けてきたのは、「私」一人の力ではない。とはいえ、誰かに手伝って貰ったわけでもない。ただ、成り立ちの中で、仮の、現象として現れている「私」が、みんなの思考の吹き溜まり的な役割で、思索をまとめて代行しているようなものだ。

だから、例えば「私は無常を知ったので、俗世の苦楽を離れるため、出家をします。みんな、さようなら」と言い、現象たる私を成り立たせていた「みんな」から離れるのは、いささか独善的であるように思われるのだ。出家をすることで「よりよい生き方」について気づく速度が上がるかどうかは、分からない。

ここを答えとせずに探求を続けることで、何か新しい考え方、もっと汎用的で力強い見方に、辿り着くことができるんじゃないか?分かることができるかもしれない、という、根拠のない予感がある。「これ」で終わりだという根拠もないのだ。

よりよい生き方を探し続けることは、私にとって呼吸のようなものである。吸って、吐く。知識や経験、他者の意見を吸い、腹にたくわえ、行動や思考として吐く。私の吐いた息は空気に紛れ、他者の吸う空気となる。そしてこれの繰り返しである。

「よりよい生き方」とは、例えば事業を大きくするとか、金持ちになるとか、家庭を持つとか、そういった具体的なことではない。「よりよい生き方」は抽象的であり、シンプルであり、よって汎用性が高く、そして幸福だ。誰にでも当てはまり、真善美のだいたいを満たし、どの国や時代でも当てはまる、柔らかいが強固な指針だ。そんなものは、あるのだろうか?

今のところ「他者と比較せずとも幸福を感じられる」とか「よく生きるとは何かを考え続ける」ということが「よく生きる」の一部ではないかと思っているが、もっと普遍的な「よく生きる」があると思う。私はまだそれに気付いていない。