意味も価値もないが退屈

経済社会で過ごす「メタルが好きで、デザイナーの卵の、絵を描く、FTXなryoma氏」…自我と、諸行無常の流れに在る「認識を受け取るだけの、吹き溜まりとしての私」…無我を行き来していると、何かをしようとする時に、私の内部で意見分裂することがよくある。

たいてい、自我が「あれをしたい」と発案し、それに対してまた自我が「なぜ、それをするのか?」と返し、しよう!しなくていい!すべきだ!…と、議論が紛糾してくる、そうすると無我が「そもそも、価値というものはない」と降りてきて、自我が「そうだった」と分からせられる。デウス・エクス・マキーナだ(かっこいい単語を言いたかっただけ)。そしてこの一連の展開は、もはやひとつの様式美のように、何度も私の中で繰り返されている。

自己欺瞞に対する恐怖

この意見分裂・セルフ議論のキッカケになっている感情のひとつに、「自己欺瞞への嫌悪感」がある。私の中で、かなり強力な感覚だ。

自己欺瞞。本当はそうしたいとは思っていないのに、何かに都合を合わせるため、自らを洗脳することだ。自分への洗脳や啓蒙活動がなければ「妥協」で済む。しかし、自分<感情>を自分<理屈>で騙しにかかるのは危険な面が多い。ひとたび自己欺瞞に飲まれると、虚しい元気が湧き、調子に乗り、次第に不安だらけになり、最終的には悪い意味で自分がなくなる。あの(慣れ親しんだ)感覚は気持ち悪いし、私にとって恐怖なのだ。もう二度と引いてはいけない「良い子トリガー」なのだ。

しかしながら、この実体的な世界で過ごす以上、無我を貫き通すというのは、かなり難しい。だからといって、自我に自由にさせていれば、気付かぬ間に「例のトリガー」を引いてしまうとも分からない。私は、私自身のために、自我を見張る必要がある。

そんな中で、どう折り合いをつけるのか?自我に振れては危険だし、無我ばかりでは面白みがない。

対立構造から入れ子構造に

ここで、私の中で「自我」と「無我」が対立構造になっていると気付いた。

しかし本当は対立ではなく、無我が常に優位にいてほしい。無我が前提であってほしい。なぜなら無我が真理だからだ。私は何も知らない塵なのだ。「無我(何も知らない)は絶対、その中で自我(知ってるフリ)が許されているだけ」という、入れ子構造になっているべきなのだ。

そうすると、そもそも冒頭の「自我同士が議論しているところを、無我がおさめる」という構図は、ちょっと惜しい。無我が議論に入るわけはないが、別にわざわざ毎回おさめに行く必要もない。子供同士が、殴り合いの喧嘩をしてるなら収めに行った方がいいが、普通の話し合いをしてる時に毎回大人がしゃしゃる必要はないのだ。ただ、変な方向に行かないかを見守っていれば良い。

意味も価値もないけど、なんとなくしたいから

自我が「あれしたい、これしたい」と言う時、無我は「本当は、価値なんてもんは無いんだから。結局、自己欺瞞ですよ」と収めにかかる。自我は「そうなんだよなァ」と完全に納得し、諦める。

そんなやり取りをしばらく繰り返してきて、特に問題は起きずに心も平穏で良いのだが、ちょっと退屈なのだ。私はまだ24歳なのである。いつ死ぬかは全くわからないとはいえ、平均的にはあと60年ぐらいある。

自我に振り切って自己欺瞞に堕ちてしまうのは絶対に避けたいが、退屈なのもつまらないものだ。

そこで、自我に方便を与える。自我は無我にこう持ちかける。

「本当は、意味も価値も何も無いって、僕も分かってるから。やりたい理由は、“なんとなく”だけなんだ」

それを聞いて、無我は答える。

「分かってるなら、よろしい。」

私は、心を平穏無事に保つという「目的」のために、無我を心に留めているのだ。自己欺瞞への陥落を避けるために、自我を抑えるという「手段」を用いているだけだ。

もちろん、怪しい動きになれば、すぐに無我による強制終了が発動する(できますように?)。