「目の前のことを一生懸命やれば良い」のだろうけど

哲学や瞑想で、いろいろと考えたり体感したりですが、最終的な結論は3年前と同じなのです。

感覚と真実

この頃はまだ瞑想をしておらず、完全に自我の中で考えていました。ですが、瞑想で無常を知った後でも同じ結論になりました。他の人の話を聞いて「おお!これは新しい考えができるかもしれない」と思っても、やはり最後にはこの結論になってしまう。思考のバックボーンが何度か変わっても同じ結論になるので、自分の中では確信的になっています。

ちょっと引用してみます。

人間の感覚は「人間の感覚」である。ほかの生き物たちは、それぞれ進化の過程で、人間とは別の感覚を持つようになった。たとえば、ある虫は、人間には見えない紫外線が見えるらしい。

この世界に「真実」があるとして、それは人間の感覚だけで確かに測れるものではない。ある唯一の真実を見るとき、人間の感覚で見たらそれは「人間から見た場合の、真実の一面」にすぎない。私は、「真実」の全容を知りえない。

…て、自分の文章なんだから引用にしなくてもいいんですけどね。

ここでいっている「真実」は、イコール「真理」ですね。

「人間に生まれた時点で、最終到達点は“人間にわかる真理”になってしまう」

「“私”に生まれた時点で、どこまで行っても“私の考えられる範囲での結論”しか出せない」

…というわけです。「わからない、という事が分かった」という感じですね。で、分からないなりに生きていくわけですが、分からないんだから、どうすりゃいいのか分からないわけです。どう生きていけばいいんですかねぇ。

思うに、「これこそが良い生き方!」という固定された概念は、真実ではない。時代も背景も環境も移りゆく人間社会で、1秒たりとも固定されない世界で、固定化されてしまった「正解」は1秒後に「時代遅れ」になる。

考えると分からないんですが、友達と喋っている時にポコッと出てくる己の言葉とか、普段無意識的に心がけていることはあります。

「目の前にあることを一生懸命やればいいんだ」

これですね。これなんですが、これで解決・納得とはいかないのが私のようです。

自分の役割は何か

「目の前にあることを一生懸命にやればいい」んですが、それでもなぜか不安は消えません。この不安はなんなのか?

おそらくこれは「自分が良い、それだけじゃなあ…」という感覚です。

日本で「人の役に立つ」というと、何か価値をつくるとか、便利さをつくるとか、「もっと、もっと」という方向になりがちです。今の専門学校でも、より便利にとか、より楽しく、ということを何度も言われました。ブログを読んでも、本を開いても、「もっと価値をつくって、便利に」だらけです。ほとんどみんな、自発的にか無理やりかは分かりませんが、ものづくり・価値づくり・金づくり、です。

しかし、こういうのは、なんとなく違う気がするんですよ。もっと根本的にすべき事があるような気がする、金曜の夜更けでした。