心を穏やかに保ち・他人に優しくするために必要な技術です。瞑想を通じて分かってきたのですが、感情を観察していると、「感情はただの感情。べつに無視しても大丈夫だ」と思えます。
以前は、己のうちに湧いてくる感情を「命より大切」と見なして、気持ちをどんどん膨らませていました。大事に大事に、忘れないように育てる。感情を忘れるとか誤魔化すというのは、己に嘘をつく、大変な罪悪だ、そんな生き方は死んでるのと同じ!…とまで思っていました。
ちなみに、もっと以前には、感情が殆ど死んでしまった状態も経験しています。マシな順に並べると、
感情がコントロールできる > 感情に振り回される > 感情が湧いてこない
です。感情に振り回されてしまうのは、感情が全然湧いてこないよりはマシでした。
で、話を戻すと、感情がどうってことないと分かったら、それをショートカットするようになりました。
胸をえぐる苦しみにすら、意味はない
「感情をショートカットする」というのは、処世術のようなものです。
感情が出る→感じる→味わう→葛藤→消えていく
という流れがあるとしたら、真ん中に細工します。
感情が出る→確認・分析する→消す
「あ、今こういう感情が出てきたな。こういう時に出る感情が分かったし、反省もできたし、この感情を活動に使う予定もないな。では、もう苦しみを味わう必要はない。ていっ!(消去)」という感じです。
すると、感情に振り回されたり、クヨクヨ悩む事が減って、楽になります。
昔の自分からしたら、トンでもない罪悪を犯しています。感情を「分析」して、しかも「消す」なんて!!
でも大丈夫です。出てきた感情を消すのは、最初はかなり勇気が要りましたが、慣れてしまえば楽です。感情を消したからといって、感情が湧かなくなることはありません(残念ながら?)。
よく考えてみてほしいのですが、「感情の楽をすること」自体にも、「苦しむこと」と同様に、特に意味がありません。だから、目的がないなら楽をしてもいいのです。
人間らしさを保つために
毎日、何かしらの感情がたくさん湧いてきます。それらの観察を続けると、どう扱うかコントロールできるようになります。
たいてい、感情を利用する予定はないので、持っててもしょうがないから、消します。一方で、芸術活動とかで感情を利用したい時は、わざと膨らませたりキープしておく事もあります。こういう風にコントロールできるようになるので、単純にいって「便利」です。これもまた特に意味はないので、べつに感情を「便利に」してもいいのです。
苦しみの感情それ自体には、価値とか意味はありません。ただの反応です。風が吹いたら髪の毛が揺れる、湯船につかると血管が広がる。これと同じです。
大事なのは、そういう反応をどう捉え・使うのか?です。感情が湧くこと自体を塞ぐことはできない。けれど、出た瞬間に「あ、出た」と気付いて、それをどう扱うかは自分で決められる、という話です。
感情はコントロールできます。そして「感情をコントロールすること」は、非人間的なことではありません。穏やかで寛容な、人間の心を保つための技術です。