「絵の描き方情報」は無視していい

近年はすっかりインターネットが普及し、絵の描き方についても沢山の記事や動画が並んでいる。誰でも「上手い描き方」「効果的な表現方法」にアクセスできるようになった。

…すると、どうなったか?

「笑う時は、こういう顔です」「怒ると、顔の筋肉はこうなります」「力強さを出したい時は、線を太くしましょう」などの「1つの表現の正解」がバラ撒かれてしまった。絵師達は当然、向学心によってそれを使用する。その結果、pixivやTwitterは同じような描き方、同じような表現ばかりになっている。同じようなテイストというのは、イコール流行であるから、大衆に評価もされる。学んだ結果、評価をされるのだから、それは正しい現象なのである。モチベーションも上がるのだ。

最近の流行りは「表情のない美少女」だと見ている。マネキンのような美少女が、表情を殺して、風景の中に突っ立っている絵がやたら多い。ソシャゲの美少女も、余裕のある顔立ちばかり。ファッションを描くための土台として無表情の美少女を用いるなら分かるが、大体の場合は服ではなく美少女が主題のようである。

表情をもつ絵の場合も、ほとんどは「笑う、というポーズをとっている」表情だ。いつでも無表情に戻れるような、モデルのような表情なのである。描かれているキャラクターが演技しているのを更にイラストという媒体に複製するとしたら、それはひたすらに退屈な表情である。

腹の底からニタァッとしちゃいました、というような、ある種の下品さを持つ、描き手の暑苦しさが伝わってくる表情は非常にレアだ。そういう絵を見ると、つられてこちらも笑ったり悲しくなったりしてしまう。その同調感は心地好いのだ。

このことには、つい先日気付いたので、私の絵も「ポーズ的な表情」であることは承知している。私も、絵の描き方をググったうちの一人だ。

ただただ不気味で、居心地が悪いので、この記事を書いている。べつに、絵画界の将来を憂えたりはしない。無表情の美少女が跋扈するインターネットランドが不気味なだけだ。

だからといって、世の絵師たちに「表情、表現を思い出せ」などと言っても仕方ない。できない理由が2つある。

1つは、もう既にインターネットは発達してしまっている。この流れは止められない。絵の描き方記事は増え続けるし、ひょっとすれば赤ペンAIや、モチーフを入力すると最適な背景資料を出すAIなども出るだろう。効率が良くなり楽ができるのは、「いい事」なのだから。絵描き以外の大事なことにもインターネットが使われるのだから、その影響が絵描きにも及ぶのは仕方ない。

2つめは、そもそも「表現ができる」絵描きは、そんなに沢山いない。いくら技術を磨いても補えない、感性の問題がある。ここでいう感性は所謂センスではなく、例えるならば「描いている絵への感情移入能力」や「子供の視点での想像力」である。デジタルアートが台頭し、イラスト制作にとりかかるハードルが低くなった今、趣味で描いてる多数の人々に「表現をしなさい」などと言うのは、ただの押し付けである。そんなことはしない。技術を磨くだけでも、見た目が良い絵は描ける。それが楽しい趣味だというのは良いことだし、必要な仕事でもあるから、否定はしない。

仕事として描いているなら、流行を押さえる必要もあるだろう。絵を書く動機が「チヤホヤされたい」なら、大衆に受ける画風を練習するのが適切だ。そういう場合は、「絵の描き方記事」は大いに参考にすべきである。

ただ、「表現」というものの何たるか、絵という媒体の可能性、己の表現の限界に挑戦する、そういう「表現者・芸術家・哲学者」的なメンタリティーで絵に取り掛かるなら、「絵の描き方記事」は参考にする必要は無い。それらの記事は「描くための技法」を教えてくれるが、「表現のための頭の使い方」を教えてくれるのは、独りで進む探求の道だけだ。

絵というのは、表現方法である。言葉や音楽と同類だ。私が「大好きだ」とか「ありがとう」といった気持ちを表現する場合、絵に表すのが一番よく伝えられる(気がする)。愛情表現に際しては、言葉で何か言うよりも、絵の方が上手く伝えられるのだ。

感情や思考といった材料を、表現というフィルターに通して、技術という係数を掛ける。そうして作品が作られる。

便利なインターネットだが、表現者として荒道を歩く者達にとっては、この環境が巧妙なトラップにもなる、と考えたのであった。