「自分らしさ」とは自己制限である

自戒の念を刻み込みます。

自我を治めようとする自我?

人生のラスボスはどうやら「自我」みたいなのですが、その捉え方に不足があったようです。第二形態に気づきました。自我といえば、どーでもいい雑念を発生させまくる、苦しみ発生装置…なのですが、それだけではありませんでした。「自我を収め、りっぱな人間になるのだ」などの、「自我をコントロールする者になるぞ!」という己への性格づけ(=自我!)に、縛られていたのです。

「雑念少なき者となるのだ!」「誠実でありたい!」「人格を高めたい!」

…これらは、私の願いです。りっぱな人間になりたいと思ってます。ですが、まさかこの「意志」がいつのまにか「私の個性」となって、「私は、こういう人なのだから」という執着になっていくとは…。

なんということでしょうか。「ラスボスを倒すぞ」と念じ「自分は勇者である」と感じると、その信念をエネルギーにしてラスボスが巨大化する。とはいえ、信念がなきゃマトモに向き合い続け、そして勝つなんてのは難しい。どうやって、ラスボス倒しましょう?

・・・。

昔、親しかった人に指摘してもらったことがあります。

「君は性別に囚われたくないと言っているけど、だからこそ一番性別にこだわっている」

これです。そのまんま、置き換えられます。

「“執着に囚われたくない”と言っているけど、だからこそ執着にこだわっている」
「“自我に囚われたくない”と言っているけど、だからこそ自我に構いっぱなしになっている」

もっと具体的に言いましょう。例えば私は虫が大の苦手なので、防虫スプレーで家の周りを防御したりするわけです。これが何を意味するかというと、虫が苦手だと、平気な人よりも、虫のことを考える時間が増えるという、なんだかおかしいけれど当たり前な現象が起きます。

「自分らしさ」は自縛である

今までブログなどで「“自分”はいないのだ」と書いてきました。これ自体は、やはり正しいと思います。理屈でも、体感でも、「自分はいない」ということは、分かっていました。

しかし「“自分はいない”ということを理解している自分」が、どっしりと座っていたわけです。もう、ものすごい存在感で、堂々と、常に「理解している私」がいる。

「“自分はいない”と分かっていて、自我を収めようとし、頑張って諸行無常を会得しようとする、個性あふれる自分」を、全身からアピールするのを止められない!

冷静な自分。INTP型の自分。FTXの自分。絵を描く自分。メタラーの自分。メンヘラっぽい自分。アスペっぽい自分。ADHDっぽい自分。ACっぽい自分。鳥が好きな自分。髪の短い自分。痩せている自分… すべて、執着…!

もうだめだ。「自我を観察する“私”」もまた「私」だったなんて。もう、何をどうあがいても、必ず「私」になってしまう、ということなのか…?

いろんな仏教のサイトや本を読んできました。その中でよく見かけた表現が「私が私が」という自我・執着の表現です。私も、ブログ内でこの言い方を使っていましたが、正直いうと、体感から理解して腹から書いていたわけではありませんでした。えらい感じの人が言ってるから、この書き方で良いかな、みたいな感じで、深く考えずに使ってました。

で、今改めて思い返すところ、あんまり「私が私が」とは思っていない気がします。
実際の感覚に沿って表現すると、「私は〇〇な人間なのだから」という感じです。

「私は冷静な人間なのだから、このくらいでは動じないのだ」「私は鳥が好きなのだから、猫の写真より鳥の写真を見ると喜ぶのだ」「私はメタラーなのだから、メタルをよく聴くのだ」

こう文章にすると「そんなことは思っていない」という感じですが、実際のところは、ほぼ無意識のうちに、反射的にこうして「自分らしい反応」を取捨選択している。その原因は、自分らしさを強調した行動をすると周りの人がウケてくれることが多かったとか、なんとなく好みな方を繰り返し選んでいるうちにキャラとして固定化された、という感じです。

で、この「私らしさ」「自分らしさ」が、いらないわけです。語弊を避けた書き方なら、「自分で自分の行動様式を規定しないように」ということです。

「私はメタラーです」と名乗ると、J-POPを聴いた時「オレはメタラーなのにJ-POPを聴いてんのか!」と、ちょっと可笑しくなります。まあ趣味の範囲でこういう現象が起こるのは、楽しいだけなので良いのですが、これが「私は真面目な人です」になると、パリピの集いには参加しにくくなります。「私は完璧主義です」と公言すれば、ラクガキをSNSに上げることに何となく気が引けてしまう。

「自分らしさ」と言えば、なんだか「自由」な雰囲気を感じますが、その実、自分で自分に制限をかけることで「自分らしさ」を増強しているのですね。

もし「僕は、自分らしく自由にやりたいことをして生きています!」と言っているブロガーが「一度サラリーマンをやってみたくなりました」と就活を始めたら、その人はかなり凄いと思います。「自分らしさ」を手放した、純粋な“今の心”の好奇心によって動いている。良い意味で子供っぽいですね。

ということで、上記のようなことに気付いたら、なんとなくセーブが外れたような気がします。

人生は無意味だ

残念ながら?人生は無意味です。でも、人間はついつい妄想してしまいます。

未来を思うと、つい目的を探します。過去を思うと、つい理由を探します。

大人になると、未来のことを考えがちです。社会全体が「将来のことを考えて行動しないと、大変なことになるよ」と「親切に忠告」してくれているからです。でも、(内省しすぎて生きる意味を信じられなくなった人は)未来のことを考えるのをやめたらどうかと思います。

「今しかない」は、説明がものすごく難しい概念です。「過去と未来は空想上のものであり、実際に感じられるのは“今”だけ」という意味もあるのですが、それよりももっと現実的な感覚を含みます。

諸行無常と諸法無我はまだ説明可能ですが、この「今しかない」の“大事な方の意味”は、抽象的すぎて体感でしか分かりません。喩えるのがやっとです。「本能」みたいなものかもしれません。子供の心です。そう、意味などなくとも夢中でゲームをし、必死に絵を描いていた、あの頃の気持ちです。