真面目・完璧主義な自分を受け入れる

「本当の自分」とか「ありのままの自分」、「本当にやりたいこと」なんて言葉を見るとき、なんとなく「不真面目」であるとか「奔放」、「無責任」といったイメージが付きまとう。

小学生の時から、いや幼稚園かもしれないが、とにかく大昔から「真面目だね」「〇〇ちゃんに任せておけば安心ね」と言われ続けてきた。学校でも家でも職場でも、ほぼ欠かさず言われてきた。

一方で、精神を病んでいく。社会からの隔絶…そこから自分を救ってくれたのが、破天荒なヘヴィメタル・バンドときた。こうなれば「本当の自分はもっとテキトウ人間なのに、親や社会に真面目にされたせいで精神を病んだのだ」と思うのも当然のことであった。

そこで、テキトウ人間になることを試みる。心を鬼にして、不真面目を実行していく。そうして確かに一皮剥けたが、やはり根源的な部分からの真面目な感じは止まらない。放っておくと、すぐ真面目になってしまう。「ワルになる計画」を不断に実行し、「だいぶ気が楽になった」と思った後でも、相変わらず周囲からの「真面目だね」は収まる事がない。

正直なところ、自分が特別真面目だとは思ったことがない。とはいえ、周りの児童生徒に「なぜあんなに不真面目なのだろう」と思ったことは沢山ある。つまり「私が真面目なのではなく、周りが不真面目すぎる」と感じてきた。

インターネットでは「真面目な人は損である」とか「本当の自分はもっと自由だ」といった論調が主で、真面目というのは「都合の良いこと」ではあっても決して「カッコいいこと」ではないのだった。「本当の自分=テキトウ人間な自分」を認めることができれば、真面目の呪縛から解放されるにちがいない、というのが、いつもの結論だった。

しかし最近、なんだか疲れてきた。

ここで普通なら「疲れたのは真面目だから→やはり、もっと適当にならなければ」という風に持っていかれるのだが、今回はなぜか「もう、真面目でいいんじゃないか」という風に閃いたのだ。もう疲れたから、ありのままの真面目で、いいんじゃないか。ようは、真面目だから疲れるのではなく、無理に真面目をやめようとするから疲れるのではないか、と。

真面目な人間は、沢山の人間の「真面目だと損するよ」「もっとテキトウでいいんだよ」という善意からの助言を真面目に聞き入れ、なんとか真面目ではなくなるように真面目に努力するのだが、それは結局叶わず、己の努力不足を責めるのである。

「真面目」「完璧主義的」という私の特徴は、生来の性格と生育環境がかけ合わさって発生したはずである。しかしそれは「テキトウ人間」「不真面目な人」とて同じこと。確かに、家庭環境や何やかんやで歪んだ部分はあったにしろ、その歪みもまた紛れもなく「ありのままの私」なのである。仮に、何かが不安で真面目に“振舞っている”としても、「何かを不安に感じ、それを緩和するために真面目に振る舞う」というのは「ありのままの特徴」なのである。同じ状況下で、無責任に逃げ出す人間こそが「ありのまま」なのではない。人間はそこまで画一的ではない。

真面目な人間は、ありのまま真面目に生きることが「生きやすさ」に繋がるのではないか。ここでいう「真面目に生きる」とは、何もいわゆる「テンプレ人生を歩め」というのではない。いや、別にテンプレでも何でもいいのだが、別に海外で暮らそうが、起業しようが、サラリーマンだろうが、形態はなんでもいい。問題はそこで「ちゃんとやろう」とする姿勢を、善意による助言によって歪めないことである。

「言われたことを真面目にやってしまう、真面目な自分」を情けなく思うことをやめる。「真面目だね」という言葉を「やはり私は真面目なのである」という意味以上に受け取らない。有名人が「完璧主義はダメだ」とか言っていても、「だって不真面目にするのが苦手なんだから、しょうがないだろ」と開き直る。「真面目な人は損である」という調査結果を見せつけられても、「しかし、自分を歪めて不真面目になることの方が人生のリスクである」と分析する。そうして「真面目」とか「完璧主義」といった個性を受け入れ、磨き、貫くことだ。