こちらから聞かねば、心は黙っている

やはりなんとなく「真実・真理のうちに生きなければならない」という変な感覚があって、これが自分自身の生、生き生きとした活動を狭めている気がしています。

そもそもの目的

そもそも「真理を知りたい」とか「世界の本当の姿が知りたい」とかいう欲求は、私の場合「よりよく生きたい」という欲求から成っています。

「理由はなく、ただただ知りたい」という側面もありますが、よりよく生きたいという気持ちはいつでもあるのです。そういうわけで、「よりよく生きたい」という欲求を持って真理はなんだとか考え続けてきたのに、その結果が「よりよく生きる」から遠ざかるのでは本末転倒ということです。

「結果」とか「真理は」とか言っていますが、今のところのマイ哲学到達地点をそう呼んでいます。諸行無常と諸法無我のことです。

現状

今の状態はどんなかというと、「本当は全てが“ない”のだから、何をやってもむなしい」感じになってしまっています。楽しくないです。

本当は全てがないのであれば、逆に何をやっても楽しんでしまって良いはずなのですが、理屈上そうではあっても、感覚的にそうはいかないようです。

ただ、真理とはただの真理です。法律や倫理ではないので、特に遵守する必要はないですし、そもそも「真理の遵守」とはなんなのか私にもわかりません。諸行無常に遵守もなにもないはずです。わからないものに、なんとなく縛られてしまっている、実におかしな状態です。

生を享受するのに真理が邪魔をするならば

捨ててしまえ、

という感じですが、真理は真理なので私の意思で捨てたりすることはできません。真理とは、状況に関わらず常にどこでもあるものです。捨てられるのは、さしずめ認識といったところですが、それもかなり難しい。

おそらくは、こんなふうに「突き詰めて考える姿勢そのもの」が「生を享受するのを邪魔しているもの」なのでしょう。しかし、「じゃあこの姿勢はやめよう」というわけにもいきません。精神の自殺なので。

真理はただの真理、と再確認

じゃあどうすればいいかというと、

「真理はただの真理です」

とひたすら再確認することだと思います。

諸行無常だから、と常にクール/ドライであろうとするのは、「よりよい人生にしたい」という目的から遠ざかることです。といって、逆に常に何かに燃え続けているというのも、無理があります。諸行無常を知ってしまったうえで、そういう波に意識的に飛び込むことはできないし、飛び込もうとは思いません。

意図的に、思考の上でどうこうしようというのに無理があるみたいです。

一方で、ほぼ無意識の上で一時的にテンションが盛り上がる≒フロー状態に入ることはあって、これが「よりよく生きる」に直結するような気はしています。

そういうわけで、思考ではなく無意識や心に問うてみて(こちらから聞いてあげないと彼らはずっと沈黙している気がします)、純粋な興味というのを大事にしていこうかなと思うところでありました。