ベーシックインカムと「天才・秀才・凡人」

2025.5.18

ここでいう「天才・秀才・凡人」とは、「天才を殺す凡人」(著・北野唯我)のフレームである。私はこちらの書籍を読んではいないし、レビューや解説等を読んでも内容がそこまで正しいとは思わない。ただ「天才・秀才・凡人」のフレーム自体は真実の一部分をある程度言い表しており、これを拝借して「ベーシックインカム(BI)制度」と紐づけて論じることには一定の価値があると思う。

ベーシックインカムで生産性が上がるとすれば、それは一人ひとりの生産性が全体で少しずつ上がるというよりも、天才が生活費確保(=社会への忖度)から解放されることで逸脱性を全力投球できるようになり、それによって結果的に(凡人や秀才も大勢巻き込んで)生産性が爆発的に上がるという側面が大きい。これが資本主義社会の先進国におけるBIの本質だと私は思う。

まず前提として、一般的にイメージされている天才と実際の天才の間には乖離がある。天才とは「浮きこぼれ」のことであり、逸脱しているので、多くの場合は周囲に理解されないまま一生を終える。いじめを受けたり精神病院送りになったり自殺する場合もあるだろう。世の中に受け入れられるためには「社会にとって都合よく才能を活かす」ことが必要だが、社会にとって特に都合がよくない活かし方(この場合、そもそも「活かす」と言われない)もたくさんあるし、天才が全員「社会にとって都合の良いこと」に興味を持っているわけではないのだ。

天才は逸脱しているので、「(彼らにとっての)普通のまま」では生活に支障が出る。といっても、生活費は自分で稼がなければならない。生存コストをまかなうためには、社会への忖度が必要となるのだ。すると、凡人や秀才よりも多くの労力を忖度に消費してしまうので、仮に「社会にとって都合の良いこと」に興味を持っていたとしても、才能を活かせる余力がなくなってしまう。

そこで、BIである。BIは「全員に最低限の生存コストを支給する制度」だが、それがもたらす最大のインパクトは「天才が社会への忖度労力から解放されること」である。つまり「仕事にならないから生活できない・需要がないから考えても実現できない」などの経済的制約を天才から解除してあげることで、天才は「社会的にすぐ役には立たないが、根本的に重要なこと」に集中できる環境が生まれる。

BIによって社会全体の生産性が上がるとしたら、以下のように表れる。具体的な数値の正確さを検証するのではなく、爆発的イメージを捉えてほしい。

  • 凡人、秀才:1.0 → 1.1
  • 天才   :0.1 → 1〜10,000↑

こうなると国家予算の配分効率からは「天才だけにBIを支給すべき」と思える。しかしそうではなく、何も考えず国民全員に配るのが絶対条件である。所得制限なども一切設けてはいけない。

というのも、世の中のほとんどは天才ではないので、天才を正確に見抜けないし、そもそも言っている内容を理解できない。すると「凡人が考えた天才っぽさ」を演出できる一部の秀才にしかBIが適用されなくなる。一方、天才はそんな馬鹿げていて恥ずかしいことはしたくない。大衆に理解されることよりも、真実性や純度を優先するので、大衆の理解しやすさに合わせて過剰な翻訳や演出をしたくないのである。するとやはり天才は発見されず、ゆえに活躍できない。

たとえ「誰が天才かを判別する専門家組織」を作ったとしても、構造上、その組織自体がほぼ凡人・秀才によって運営される(社会的に“有用な”人材が選抜されるはずなので)。すると判定基準は「理解可能で、社会的にメリットがあるかどうか」になってしまう。世界を変えるような大発明は、世界を変える(破壊する)のだから、理解できないのはもちろん、既存社会の延長線上とも限らないのだ。

BIは全員に無差別に配ることで初めて、社会的評価にあまり興味がない逸脱者にも、爆発的創造の土台を提供できる。一見無駄が多いように見えるが、爆発的・破壊的な革新が起こるための分母を増やすためには、唯一有効な手段なのである。