お誕生日-23歳の振り返り

今年もまたひとつ年齢が増え、24歳になりました。恒例の通り、一年間を振り返りたいと思います……かなり脱線をします。

専門学校に通っています

濃い一年でした。ちょうど一年前に出会ったクラスメイトたちですが、もう何年も一緒に過ごしているかのように感じられます。

私は全日制の高校をドロップアウトし、一昨年まで通信制の高校にゆっくり通っていたので、「毎日どこかに通う」ということをしたのは実に7年ぶりです。正直、今の専門学校に入学した当初は「また行けなくなったら…」と考えていました。周りは年下ばかりですし、仲良くやっていけるかも不安で、先行きはまったく見通せなかったです。しかし、幸運なことにクラスメイトに恵まれ、精神面もちゃんと治療出来ていたらしく、特に問題なく通い続けられています。

高校の時は夏休みを挟んで崩れてしまったので、夏休みを越えられるかが大きなポイントでしたが、友人の助けもあって無事に一年を修めることができました。ここに書くのもなんですが、クラスメイト、先生、友人たちに非常に感謝をしています。

哲学的思索が深まりました

ここ一年で、かなり世界観・人生観が変わりました。ただ、それは「周りの刺激を受けて成長を…」とか「授業を通じて仕事へのナントカが…」といったものではありませんので、ご安心を。もっと意味のない、無益で感覚的な変化です。

ちなみに変わる前はどうだったのかというと、割と最近まで私は「目標に向かって頑張るぞ!」的な人種でした。専門学校に入った当初も、有名な会社に入るぞ!と意気込んでいました。これらのパワフルな思考は悪いことではないんですが、思索を進めていくうちに、だんだんと抜け落ちていきました。そして今となっては、年下のみんなと同じ雰囲気のなかで「まあ、なんとか就職するぞぉ」くらいに思っています。

ずいぶんハードルが下がったものです。人によっては、こいつは落ちたものだ、と思うかもしれません。

存在のゆらぎ

昔から、「何故生きているのか?」「この世界の本当の姿とは何か?」「私とは何なのか?」というようなことを、ずーっと考え続けてきました。ある時は己を変えようとし、ある時は使命感に燃え、またある時は無価値感の前に佇みながら。考え続ける理由はなく、ただ脳の働きに任せて思索を続けました。そして、記事の内容上めちゃくちゃ端折るのですが、ある事を思う瞬間がやって来ました。

「この世界が “あるか、ないか” に関わらず、ただ私が認識するかどうかの問題なのでは?」と。

「この世界は “本当に” 存在するのか」という問いは、原理的に解く事ができません。「世界」は「すべて」なので、「その外側から確かめる」ということができないからです。大元の「世界」が揺らいでいるので、その中にある例えば「りんご」とか「鉛筆」とか、あらゆるものは揺らぎの中にあります。「ある」とも「ない」とも言えない、シュレーディンガーの猫のような、はっきりせず気持ち悪い感じです。

で、どこに落とし込むのかというと、「気のせい」にします。

世界(と、そこに含まれる意味や価値)があるかないかは分かりませんが、とりあえず感覚はあります。それは認めざるを得ない事実です。そうして最も誠実に、分かっていることだけを答えると、「とりあえず、感覚だけはある」というものになります。見えるし、聞こえる、リアルに感じられるけれど、それについて確信できるのは、「そう感じている」ということだけ。過去や未来も、想像のなかにあることを感じているだけ。その脳も、私が動かしたくて動かしているのではなく、周りの影響を受けて勝手に作用しているだけ。世界の存在は証明できずに揺らぎますが、ひとまず感覚現象だけはあるのだ…と。

「世界から独立した、この私」という特別な存在すら、揺らいでいるのでした。「私」はいるのか、どうなのか、証明できません。ただ、感覚があるのだけは確かです。

これらを感じたとき、私はすっかり安心しました。普通に考えたら絶望しそうな所ですが、実際のところ、心底ホッとしたのです。「ああ、良かった…」と思いました。

何故そんな反応なのかというと、たぶん世界の意義を「揺らぎ」として処理すると同時に、己を縛り続けてきた「完璧・良い子であること」の意義が消去され、結果「もう頑張らなくても良いんだ」と感じられたんだと思われます。今までと同じように頑張り続けなければならないよりは、今までの頑張りが全部なくなる方が良かったんです。こうなると、失うものが無いことに気付くので、安心です。我々は何も持たずに生まれてきて、手ぶらで死んでいくのです。そして、この思想は論理として整っていて、私の「いつものツッコミ」が生まれないのでした。一つのゴールで、真理だと感じられました(もちろん、これからまだ新しい考えが出てくる可能性は、十分にありますが)。

「自己肯定感」なるものがあるとしたら、この感覚にかなり近いんじゃないかと思います。原因というか経過は違えど、「他人に気に入られなくても大丈夫」という感覚はほぼ同じのはずです。楽になれました。

で、何する?

世界の意義が失われたので、「すべきこと」が特にありません。…とりあえず肉体の生存本能があるので、ものを食べるために、就職の準備はしないといけないのですが。

ここで、「何も価値がない世界だということを逆利用して、自分なりの価値を作って頑張る!」という考え方もあるようですが、これを実践できるほど私の頭は素直ではありません。かなり批判的な頭、というか勝手にニヒリズムに到達する程度には懐疑主義的なので、すぐに「自分を自分で騙している」ことに気付いてしまいます。昔からずっと考えてきたことに対して、ようやく一つの答えが出て納得しているのに、パワフルになるためにわざわざ以前の感覚に戻るのは相当無理があります。「パワフルであること」の意義も薄くなっているのですから。しかも、自分自身に取り憑かれて「良い子になって」いく時の、気色悪くて心地いい感覚はハッキリと分かるのです。良い子になるとどうなるかも知っています。

「さて、人生長くて、ひまだなあ。何をしようかなあ」…そんな事をボンヤリ考えていたある朝、情報番組でテーマパークのニュースが流れてきました。新しいアトラクションができて、かわいいお菓子もあるようです。

「あ、楽しそうだなー。友達と行ってみたいなー。」って思いました。ワクワクしました。そこでまた気付いたんですね。「楽しいことをすればいいのでは?」と。

私はこうなるとすぐに「今勉強しているデザインに関係あることで」とか「仕事になることで」などと範囲を作ってしまうのですが、そうではないことを直感しました。「たのし〜」という気持ちを第一条件に、子どもの心で、ということです。道端の石の形を比べて気に入った方を持って帰るとか、目の前を歩いてるおじさんの歩き方を真似るとか、カーテンに包まれるとか、そういうレベルの行動が多分に含まれます。

ひまなので、楽しいことをしようと思います。

爽やかな季節

もうすぐに、長袖シャツ一枚、Tシャツにパーカーで歩ける季節がやって来ます。非常に気分の良いスタイルです。心地よい風のなか、私はまだまだ思索を続けるでしょう。

ラスト20代前半となりますが、何卒よろしくお願いします。